瑞応山弘明寺。坂東観音三十三ヵ所、横浜觀音三十三所、武相不動尊霊場、東国八十八ヵ所霊場
弘明寺の概要
高野山真言宗寺院の弘明寺は、瑞応山蓮華院と号します。弘明寺は、善無畏三蔵法師が養老5年(721)に開創、聖武天皇の勅命により天平9年行基菩薩が観音像を安置して伽藍を造営したといいます。鎌倉時代には源家累代の祈願所となっていた他、小田原北條氏よりも崇敬を受け、江戸時代には慶安2年(1649)寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。本尊の木造十一面観音立像は国重要文化財に指定されている他、坂東観音三十三ヵ所の第14番、横浜觀音三十三所結番となっています。東国八十八ヵ所霊場60番、武相不動尊霊場12番です。
山号 | 瑞応山 |
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院号 | 蓮華院 |
寺号 | 弘明寺 |
住所 | 横浜市南区弘明寺町267 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
弘明寺の縁起
弘明寺は、善無畏三蔵法師が養老5年(721)に開創、聖武天皇の勅命により天平9年行基菩薩が観音像を安置して伽藍を造営したといいます。鎌倉時代には源家累代の祈願所となっていた他、小田原北條氏よりも崇敬を受け、江戸時代には慶安2年(1649)寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。本尊の木造十一面観音立像は国重要文化財に指定されている他、坂東観音三十三ヵ所の第14番となっています。
新編武蔵風土記稿による弘明寺の縁起
(弘明寺村)蓮華院
除地、三百十六坪、村の西方にあり、古義真言宗、瑞應山弘明寺と號す、元は無本寺なりしが無本寺禁制ありし頃にや、今の如く郡内石川寶生寺末となりしならんか、されど年代は詳ならずと寺僧のいへり、其始は弘法大師の開きし地にして、中興の開山を光慧と云、【東鑑】に云、治承五年正月二十三日、於武蔵長尾寺、幷弘明寺等者、長榮可沙汰之旨被定下、是源家累代祈願所也云々、長榮は威光寺(豊嶋郡雑司ヶ谷村威光山法名寺なり)の院主なりしこと同書に見ゆ、されば鎌倉代々の武将祈願所として、尊敬ありしこと知べし、小田原北條氏に至りても、寺領等若干寄附ありしことは下に載る古文書に見えたり、御當代に至り慶安二年寺領五石の御朱印を賜へり、縁起あれど探るべきことなければ略す。
寺寶
天神名號一幅。後陽成院宸筆。
観音三十三身像三十三軀。大行の作。
薬師像一軀。恵心の作。
阿彌陀像一軀。安阿彌の作。
千手観音像一軀。定朝の作、以上三軀は境内熊野社の本地佛なり。
十一面観音像一軀。作前に同じ。
誕生釋迦像一軀。弘法大師作、以下同じ。
不動像一軀。
愛染像一軀。
虚空蔵像一軀。
辨財天像一軀。。
紇里字塔一基。
五色佛舎利一位。光明皇后・行基菩薩・多田満仲所持ありし舎利なりと云。
聖天像一軀。行基の作。
兩部大日像二軀。伽羅にて作れり。
毘沙門天像一軀。運慶の作、下同じ。
渡唐天神像一軀。
賓頭盧尊者一軀。
葬頭河奪衣婆像一軀。
仁王像二軀。
四臂不動畫像一幅。弘法大師作。
般若心経一巻。同筆。
地蔵畫像一幅。敬書記筆。
渡唐天神畫像一幅。兆殿同筆。
鰐口一口。明應九年のものにて、殊に大なる鰐口なり、重さ六貫二百目、径り一尺九寸、左の銘文あり、(銘文省略)。
額一枚。大永中のものなり、圖上に載す。
花瓶一个。行基の作と云、天正十八年修理を加へしものなれば、舊きこと知べし、木にて作りたるものにて、文字は朱漆を以て書けり、形左に載す。
駒玉一顆。
古文書一通。(書文省略)
本堂。四方六間餘東向、本尊十一面観音は、行基一刀三禮の作なり、坂東三十三所の内第十四番の札所なり、この堂は寛徳元年三月光慧が建立する所にて、其後元享元年浄泉といへるもの願主にて、施主禅海修理を加へ、明應五年沙門源覺又修造せりと云、今の堂は明和二年改め造りし所なり、其時古き堂の柱を除き去りしに、ほぞの内に寛徳元年甲申と記しありしを、村民庄左衛門まさしく見たりと云。
客殿。八間餘に六間北向、本尊十一面観音、立像にて定朝の作、長二尺。
仁王門。街道より三十六間餘内に入て石階の前に立り、本草と同じく東向なり、三間餘に二間餘、仁王の像は長九尺許にて運慶の作なりと云傳ふ、この仁王門外の道路にて、毎年七月十日、十二月十八日、同二十四日市を立つ、門の入口に坂東十四番弘明寺と彫りたる石標を建つ、寶暦十四年二月の物なり、門に入て左に制札あり。(制札書文省略)
鐘楼。本堂に向て右の方にあり、古鐘は弘安九年願主長慶が寄進せし所なりしが、貞享元年阿闍梨慶海鋳改めしを、寛政十年秀光がとき又鋳直せし物なり、銘は古鐘のままを彫りしと云、その文考證に備ふべきものなければ、今略して取らず。
五輪塔。同邊にあり。
熊野権現社。本堂の脇より左の方、石階三十餘級上て上にあり、七尺に四尺五寸、上屋四間四方、この山頂を摩尼山と云、元は小社ありし由、今はなし。
稲荷社。権現ノ坂下右方の小坂の上にあり。
閻魔堂。本堂の右にあり、二間半に二間、地蔵をも置り。
七ツ石。仁王門の右の方に一つ、石階の登り口兩邊に二つ、鐘楼の下に一つ、少し隔てて一つあり、又御朱印地の畠中に一つありしと傳へたれど、埋れたるにや今はなし、又一つは在所詳ならず、是を弘明寺の七つ石と稱す、この石につき奇怪の話あれど妄誕にわたるに似たればとらず。
尾りよ石。仁王門を入水盤の傍にあり、名の来由を傳へず。
福石。石階の上右の方にあり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による弘明寺の縁起
弘明寺
弘明寺は瑞應山蓮華院と稱し、中區弘明寺町字山下二百六十七番地にある。境内は二千二百二十七坪。總本山、高野山金剛峯寺の直末で、寺格は十一等地。坂東觀音三十三所の第十四番の札所で、市内觀音三十三番の靈場を兼ね、當市第一の古刹である。
緣起に、當寺は養老五年、善無畏三藏の結界に始まり天平九年、行基大士十一面觀音の造立に起り、大同四年、弘法大師の伽藍建立に開けたとある。今、斯道大家の鑑査によるも、本尊十一面觀音の造像は、平安朝初期を下ることなしと云ひ、其草創の古いことは固より申す迄もない。其本尊は今、國寶となり、叉、寺邊より往々布目の古瓦の現れるのに徴すれば、當代の伽藍が如何に莊嚴であつたかも想像される。學說によれば、此附近は、安閑天皇の朝に倉樔屯倉を置かれた本據であると云ふ。屯倉は皇室の直屬であつた關係から、此地は自然、地方の勢力と富と、文化との中心となつたと思はれる。斯かる地に、上古から早くも此伽藍の建立を見たのは、蓋し偶然では無い。寛德元年に、光慧阿闍梨が堂宇を再興し、三月十日に入佛式を執行した。彼の坂東三十三所巡禮は、この光慧阿闍梨の提撕に起原すと云ふのである。(寺傅。)
治承五年正月二十三日、源賴朝は常寺を源家累代の祈願所とし、威光寺長榮をして沙汰せしむることゝ定めた。(東鑑。)
弘安九年九月二十五日、梵鐘を鑄造し、元亨元年、淨泉比丘尼の本願、禪海優婆塞の施入により、堂宇の修繕を遂げ、明應五年、沙門源覺が廣く善捨を募つて再び修造を加へた。天文二年三月十八日、小田原北條氏は寺料を寄進し、永祿十年十月二日、叉、制札を出して外護に盡した。
常寺は元、無本寺であつたが、寛永十年二月十五日、關東古義眞言宗本末議定の際、堀之内寶生寺の末寺に置かれ、爾来、同寺門徒上通古跡房の地位に居つた。該本末帳に、「寶生寺末寺瑞應山弘明寺、御朱印紛失、寺領五石。」とあるが、御朱印云々の文字は、恐らく後の追記であらう。寺領五石の朱印状は、慶安二年十月十八日、德川家から始めて附屬されたものである。
明和三年二月十三日、智光上人が本堂を再建し、安政五年五月十八日より六月十八日迄、三十日間開扉供養し、盛に法要を修めた。
明治七年、本寺寶生寺の寺格變更により、元町增德院の末寺に轉じた。大正四年八月十日、文部省告示第百二十八號を以て、本尊十一面觀世音を甲種國寶に指定され、當寺の法燈は益、輝くことゝなった。同十二年九月一日、大震災に罹り、鐘樓及び山門が倒潰した。同十五年六月二十九日、本寺增德院を離れて、總本山金剛峯寺直末に入った。昭和四年、鐘樓及び山門の復興を遂げて、舊觀を完うしたが、湘南電鐵に域内を横斷されて、摩尼山の舊蹟を損し、風致を矢つたのは惜しいものである。
本尊は十一面觀世音の立像で、高六尺、行基の作と傅へてゐる。
現今の堂宇は左の如くである。
本堂は桁行六間半、梁間六間一尺、方形造、草葺である。明和二年三月、智光上人が淨財を募つて再建を遂げた所で所要の良材は多く九州の信者の奉納に係り、遙かに海路を經て野毛浦に著岸、それより近鄕の信徒が當山に運搬したのであると云ふ。
客殿は桁行八間、梁間七間、明應六年の頃、源覺の創建。明和三年修造。四注造草葺。風土記には、定朝の作、長二尺餘の十一面觀音立像を安置すとあるが、今は阿彌陀如來が立てゝある。庫裡は桁行六間、梁間八間、妻入入母屋造。明和三年の再築である。
仁王門は八脚、切妻造、瓦葺、二力士を置く。嘉歴二年の頃の建設と傳へ、明治四十一年七月修繕の際、明應十年辛酉二月二十六日修繕と記した貫一枚を發見したと云ふ。
鐘樓は九尺に一丈、入母屋造、瓦葺 。貞享元年十月、阿闍梨慶海の改築した所であると云ふ。明治四十一年、新堀源兵衞の施入により修理を加へたが、大正十二年九月一日の大震災に倒壊し、昭和四年復興を遂げた。弘安九年新鑄、貞享二年再鑄、更に寛政十年改鑄を經た梵鐘が懸けてある。 山門は二間、二間の醫藥門造、切妻瓦葺。楓關門と稱し、應永十八年の建築と稱へて居る。明治四十一年、新堀源兵衞の喜猞により修理を加へたが、大正十二年九月一日の大震災に倒壊し、昭和四年復興を遂げた。
寶藏。桁行二間、梁間二間半、二階建、草葺。寛政年間の改造と云ふ。
水屋。桁行一間、梁間五尺。天保五年の再建で水盤は元祿十一年六月の造立である。
境内堂宇
境内堂宇は左の如くある。
藥師堂。桁行三間、梁間二間半、四注造、草葺。正德二年の造立で、元は閻魔堂と稱し、文政・天保の頃は、地藏尊が立てられてあつた。後、藥師如來を安置して、藥師堂と改めたが、明治四十三年の頃、本尊を失ひ、今は弘法大師像が安置してある。
熊野權現・稻荷合祀。桁行三間、梁間二間牛。寛文十年改築の堂宇は、七尺に四尺で、四間四方の上屋を置いたが、明治四十三年修理を加へて、今の如く改めた。祀る所の二神は、其の昔、行基大士來儀の時、出現の靈神で、熊野權現像は靈烏に乘り、稻荷明神像は白狐に乘ると云ふ。
奥之院辨財天祠。桁行二間、梁間二間二尺、造立年月不詳。傅、雲慶作、天滿大自在天神竝に傅、弘法大師作阿彌陀如來が安置してある。
大聖歡喜天堂。桁行二間、梁 間二間、銅葺。昭和六年七月建立。元、奥之院として摩尼峰の中腹に在つたもの、湘南電鐵敷設のため、本堂の附近に再建した。
住職世代
開基は弘法大師と云はれてゐる。世代は不明で、唯、中興光慧阿闍梨・淨泉比丘尼・源覺・長慶・慶海・智光・秀光・海尊が住持したことだけが傳はつてゐる。現時の住職は權少僧正渡邊寛玉である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
弘明寺所蔵の文化財
- 弘明寺観音(国指定重要文化財)
- 弘明寺梵鐘(横浜市指定有形文化財)
- 木造黒漆花瓶二口(横浜市指定有形文化財)
弘明寺観音
弘明寺は、瑞応山蓮華院と号す真言宗の寺院で寺伝によると、「今を去る1200余年前、元正天皇の養老5年(721)、インドの善無畏三蔵法師が仏教弘通のため、日本渡来の節開創されたお寺で、それより17年後、聖武天皇の天平9年、諸国に悪病流行の際、行基菩薩が勅命により、天下泰平祈願のため全国巡錫の際、当山の霊域を感得し草庵をつくり観音様を彫刻し、安置せられた。」とあります。鎌倉時代には、源家累代の祈願所とされました。江戸時代、坂東観音三十三ヵ所の第14番札所として信仰を集め、年に2回の市が立ち、大変賑わいました。市内には観音道の道標が数基遺っています。
本尊の木造十一面観音立像は、関東に遺る鉈彫りの典型的な作例として有名なものです。(鉈彫り像とは、丸のみの彫り痕を像表面に残した特殊な彫り口の作品をいいます。)像高181.7cm、ケヤキ材、丸彫り・一木造り、平安時代(11〜12世紀のころ)の作。造形はかなり荒々しく、かつ粗略なもので、一見未完成作のような印象を受けますが、全身にわたって丸のみの痕を規則的に横縞目に残しており、顔面は肉身や着衣に比べ、極め細かく入念に整えられています。彩色は僅かに本面の唇と化仏の唇に朱を点じ、眉目・口ヒゲ・胸飾を墨で描いています。
境内には、善無畏三蔵法師が陀羅尼を書写し、結界を立てた霊石と伝える「七つ石」、尾りよ石と刻してある「尾閣石」、大黒天の袋に似ているので名付けたという「福石」があります。(横浜市教育委員会文化財課掲示より)
弘明寺梵鐘
本梵鐘は鋳銅製の和鐘で、盛り上がった頭部、太い区画線、低い撞座の位置、前に突き出した口線といった江戸時代に製作された梵鐘がもつ共通の造形からなっています。
江戸神田に住む西村和泉守藤原政平という鋳物師の作で、川崎市平間寺(川崎大師)の梵鐘も同人の作です。西村家あ江戸元禄期頃から大正初期まで十一代続いた鋳工の名家で、江戸幕府の鋳物製作の御用を勤めた家柄です。
銘文によると、当鐘は、江戸中期の寛政十年(一七九八)に阿闍梨秀光が願主になって再々造したものであり、追銘に弘明寺には過去二口の梵鐘があったとあります。
本梵鐘は、奉造された寺院に連綿と伝わる、資料的な価値が高い貴重なものです。(横浜市教育委員会掲示より)
木造黒漆花瓶二口
この花瓶は、「亞」という字の形をしている。欅材をろくろで焼いて成形した四つの部分を組み立てたものである。開口部はラッパのような形をしているが、その内に円形板をはめ込み、板の面に五つの孔をあける。そこに五色の造花を挿したのである。
黒漆を全面に塗装しており、銅部に天正十八年(一五九〇)に修理した旨の朱漆銘がしるされているが、しかし、それより以前の制作年代であることは、その形式が鎌倉時代形式であることからわかる。
この花瓶は、木造で大型の花瓶であるという他に類例をみない珍しさがあり、また、大きいものであるから置く規模も大きい寺であったと推定される。したがって、花瓶の伽藍が大規模なものであったと想像される。(横浜市教育委員会掲示より)
弘明寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」