威光山法明寺|源義家以来源家の祈願所、江戸三大鬼子母神の鬼子母神堂
法明寺の概要
日蓮宗寺院の法明寺は、威光山と号します。法明寺は、弘仁元年(810)に真言宗威光寺として開創したといわれ、源義家以来源家の祈願所だったともいいます。正和元年(1312)に厳譽立師が日蓮上人に帰依、日源と名を改めて日蓮宗に改宗、威光山法明寺と改称したといいます。徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)寺領10石の御朱印状を拝領、江戸時代には真乗院、蓮光院、玄静院、観静院等14ヶ寺を擁す中本寺でした。また境外堂の鬼子母神堂は、入谷鬼子母神真源寺、中山法華経寺とともに江戸三大鬼子母神として多くの崇敬を集めていす。
山号 | 威光山 |
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院号 | - |
寺号 | 法明寺 |
住所 | 豊島区南池袋3-18-18 |
本尊 | 十界曼荼羅 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
境外堂 | 鬼子母神堂、清土鬼子母神 |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
法明寺の縁起
法明寺は、弘仁元年(810)に真言宗威光寺として開創したといわれ、源義家以来源家の祈願所だったともいいます。正和元年(1312)に厳譽立師が日蓮上人に帰依、日源と名を改めて日蓮宗に改宗、威光山法明寺と改称したといいます。徳川家康の関東入国に際して天正19年(1591)寺領10石の御朱印状を拝領、江戸時代には真乗院、蓮光院、玄静院、観静院等14ヶ寺を擁す中本寺でした。
新編武蔵風土記稿による法明寺の縁起
(雑司ヶ谷村)法明寺
法華宗甲斐國身延久遠寺末、威光山と號す、弘仁元年の草創にて始は真言宗なり、或は天台宗にて慈覺大師開基とも云、【東鑑】に威光寺と載るは即ち當寺なり、改て山號とす、【東鑑】治承四年十一月十五日の條に、武蔵國威光寺依爲源家數代御祈祷所、院主僧増圓相承之、僧坊寺領如元被奉免之、又元暦二年四月十三日の條に、武蔵國威光寺院主長榮懇祈日夜不怠、然平家滅亡畢、有御感沙汰之處、爲小山太郎有高被押領寺領之由、捧去年九月所給御下文所訴申也、仍今日被經沙汰帶御下文之上、失其功成濫妨非能治之計、如元返付之由、因幡守廣元加下知、又文治元年九月五日、小山太郎有高押妨威光寺領之由寺僧捧解状、仍令停止其妨任例可經寺用、若有由緒者令参上政所可言上子細之旨、被仰下、又承元二年七月十五日、武蔵國威光寺院主僧圓海参訴云、柏江入道増西去年二十六日、率五十人餘人悪黨亂 入寺領、及苅田狼藉云々、増西折節参候之間被召決之處、圓海之處申無相違、仍可停止濫妨之由被仰出之、と見えたり。
正嘉元年の頃時の住僧厳譽立師駿州岩本にて日蓮の法義に歸伏し、直に弟子となりて名を日源と改め、當寺を法華宗門の道場とせしかば、今日源を以て開山とす、日源は日蓮高足の弟子にして、後に中老僧となれり、正和四年九月十三日寂す、寺領十石の御朱印は天正十九年賜ふ所なり、大猷院殿御放鷹の時當寺へ成せられしより、打續てしはしは御成あり、御茶屋なども設けられし事正しきものにもみえたれど、其跡詳ならず、今も此邊御放鷹の時は御膳所となれり、本尊釋迦及び千體佛を安す。
祖師堂。安國祖師と號す、開山日源の作なり、毎年十月八日より十八日まで御影供とて諸人に拝せしむ。
石像釋迦。上屋を設。
鐘楼。寛永二十一年鑄造の鐘をかく。
仁王門。仁王は運慶の作と云、普通の像とは異なり古色にみゆ。(新編武蔵風土記稿より)
「豊島の寺院」による法明寺の縁起
弘仁元年(810)開創といわれ真言宗威光寺と称す。正和元年(1312)、日源、日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改める。大正12年、関東大震災により本堂倒壊、1932年再興、1945年戦禍により全山焼失、1947年復興事業に着手、1959年本堂、63年に書院、68年には山門、鐘楼堂を再建した。(「豊島の寺院」より)
法明寺の旧末寺・子院
法明寺には、下記14寺を末寺として擁していましたが、顕妙坊、良泉坊、大行院の3院は文政・天保の火災で廃寺となり、江戸末期に本立寺が末寺から離れました。現在、本納寺、真乗院、蓮光院、玄静院、観静院が末寺となっています。
法明寺所蔵の文化財
- 法明寺(東京都指定有形文化財・建造物)
- 小幡景憲の墓(豊島区文化財)
- 豊島氏の墓(豊島区文化財)
- 橘家円喬の墓(豊島区文化財)
- 楠公息女の墓(豊島区文化財)
豊島氏の墓
豊島氏は平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけてこの辺り、武蔵の地一帯にかけて勢力をもっていた一族であるが、文明10年(1478)太田道灌に攻め落とされた。その生き残りの一族の中で後、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次(1643没)を中心にその一族の墓である。
法明寺の周辺図