明石山大光院。太田大光院の説教所として明治14年創建
横浜大光院の概要
浄土宗寺院の横浜大光院は、明石山大光院と号します。横浜大光院は、太田大光院の説教所として、明治14年(1881)に創建、昭和13年戸塚宗雲寺から寺号を譲り受け一寺と成したといいます。
山号 | 明石山 |
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院号 | 大光院 |
寺号 | - |
住所 | 横浜市南区三春台139 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | 大光院霊堂 |
備考 | - |
横浜大光院の縁起
横浜大光院は、太田大光院の説教所として、明治14年(1881)に創建、昭和13年戸塚宗雲寺から寺号を譲り受け一寺と成したといいます。
「南区の歴史」による横浜大光院の縁起
明石山宗雲寺大光院
「子育て呑竜」で有名な群馬県太田大光院の説教所として明治一四年野毛の不動尊水行場の近くに千野学誠によって開設された。その後、那須祐定が賑町に教会所を移し、また、伏見町の円覚寺の一部に再度移転するなど教会の経営は困難をきわめ、明治三〇年、仙台出身の財界人大友頼年から現在の境内地の一部にあたる八〇〇余坪の寄進をうけ本堂・庫裡を建立したが、建物の建築費の借入金の問題で苦心をかさねた。当院三世の乾学善が教会の主任として入所し経営の改善を行なったが、当教会は神奈川県庁社寺係に無届であったことが判明し、昭和の初年に教会の許可を得た。こじれにこじれた土地問題も昭和七・八年にいたって教会が所有することになった。教会経営が軌道に乗ったが、新寺建立の禁止されていたので、寺院への昇格は困難であった。その頃、戸塚に宗雲寺という名前だけで建物もない寺があった。昭和一三年宗雲寺の寺号を譲り受け、一二月二〇日付で神奈川県知事から宗雲寺の公称が許可された。教会所の創立以来約六〇年の歳月を経て正式の寺院活動がこの時から展開したが、乾学善は三年後に入寂した。学善の後継者は宮林大廉であった。寺運は発展し檀信徒の数も増大した。ところが昭和二〇年去月二九日横浜大空襲によって焼夷弾の直撃を受けて焼失した。そこで昭和二〇年一一月に六畳の仮り住居を、翌二一年に一〇畳を増築し、長野善光寺山内白蓮坊から寄進された本尊を安置した。昭和三三年、一三坪の仮本堂が建立された。当院は昭和一三年宗雲寺となったが、従来からの大光院の呼び方になれた人々には宗雲寺になじめなかったので、正式に大光院と改称した。大光院は、徳川家の先祖新田義重の法名大光院殿にちなんで寺号とした。(「南区の歴史」より)
横浜大光院の周辺図
参考資料
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
- 公式ページ:浄土宗大光院