寶林寺。横浜市南区永田北にある臨済宗円覚寺派寺院

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永田山寶林寺。永田村名主彦六家の先祖服部玄庵が開基

永田山寶林寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の寶林寺は、永田山と号します。寶林寺は、鎌倉円覚寺102世大雅省音(応永26年1419年寂)が開山、その後永田村名主彦六家の先祖服部玄庵が開基として堂宇を立て直したといいます。宝暦年間には三春高乾院前住の月船禅慧和尙が入寺、東輝庵と号して以降後代の入寺が続き禅宗道場として栄えたたといいます。

寶林寺
寶林寺の概要
山号 永田山
院号 -
寺号 寶林寺
住所 横浜市南区永田北1-6-9
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



永田山寶林寺の縁起

寶林寺は、鎌倉円覚寺102世大雅省音(応永26年1419年寂)が開山、その後永田村名主彦六家の先祖服部玄庵が開基として堂宇を立て直したといいます。宝暦年間には三春高乾院前住の月船禅慧和尙が入寺、東輝庵と号して以降後代の入寺が続き禅宗道場として栄えたたといいます。

新編武蔵風土記稿による永田山寶林寺の縁起

(永田村)寶林寺
除地、境内二段四畝十七歩、外に一町六段九畝十四歩、小名堂ヶ谷と殿谷の境にあり、禅宗臨済派、相州鎌倉圓覺寺末、永田山と號す、開山大雅省音應永二十六年六月八日示寂、開基は當村の名主彦六が先祖服部玄庵なり、其位牌に玄庵道甫居士、天文九庚子四月十二日と記せり、されど開山開基の寂年隔りたれば、恐くは大雅が開山せしと云は、纔に庵室などありしを、後玄庵造營せしをもて開基と唱へしにや、本堂は七間に五間東向、本尊釋迦を安す、長二尺程。
坐禅堂。本堂の向ひにあり、五間に四間、文殊・辨天の二像を安す。(新編武蔵風土記稿より)

「南区の歴史」による東照山普門院の縁起

往昔宝林寺は小名堂ヶ谷と殿谷との境、現春日神社に隣接してあった。開山を大雅省音(円覚寺一〇二世、応永二六年(一四一九)六月八日寂)とし、開基は永田村名主彦六家の先祖服部玄庵であるといわれている。
(堂宇 本堂 間口九間、奥行六間、大正二年一二月建立。庫裏客殿、一〇〇坪、昭和三は知念一一月一〇日落慶。『新編武蔵風土記稿』成稿の頃は「本堂七間に五間東向、本尊釋迦を安ず、長二尺程」とあって堂々とした寺院であった模様である。(「南区の歴史」より)

「横浜市史稿 佛寺編」による永田山寶林寺の縁起

寶林寺
位置
寶林寺は、永田山と號し、中區永田町二百四番地に在る。境内は三千五百坪。臨濟宗大本山、鐮倉圓覺寺末で、寺格は准別格地である。
沿革
創建の年代は詳かでないが、開山は大本山圓覺寺第八世大雅音和尙大禪師應永二十六年六月八日寂。と云ひ、第二世から第五世に至る芳隱・月溪・仁英・梅州等の歷住は、皆、圓覺寺の前住で、當寺を隱居寺としたものである。第五世梅州の歿後は、全く無住となり、其頃天下大に亂れて、寺錄の莊園・田圃等は褫奪され、什寶は紛失し、堂宇は荒廢し、或は群賊の宿となり、或は狐狸の棲息に任せ、其間、曹洞或は密宗僧の住居する事もあり、頽廢凡百有餘年の久しきに及んだ。然るに中古、當所の人服部道甫居士なる者が、深く佛門に歸依し、此舊跡の衰願を惜んで、再興を謀り、その子に、禪道を修行せしめて、薙髮の後、玖盤と言ひ、當寺第六世の法嗣たらしめた。玖盤和尙は、父から資財を得て、荒廢した堂宇を改築し、寺門の興隆を謀り、布敎濟度に努め、中興の業を奏して寺門を舊觀に改めたが、第九世三甫和尙の代、更に之に修覆を加へ、寶曆年中、再び無住となつた。偶、奧州三春の高乾院前住月船和尙が、此地に巡錫して、永田の地の雅趣あるを愛し、錫を當寺に留むること十數年、其間、附近の山腹に一小庵を榮んで、東輝菴と稱し、此所に安居して當寺を兼務した。全國禪門の徒は、月船の高德を慕ひ來つて、師の禪道を硏讃した。その後、當寺境内に僧堂を建立したところが、雲水の來住する者、常に數十の多きに及び、月船は後ち江戸湯島麟祥院に轉住したので、高足峨山を以て後嗣とした。峨山和尙は、師の意志を繼いで衆を領し、峨山は鵠林の作家、今尙、鵠林會下の宗風を存するは、獨り峨山の法孫あるのみと云ふ。續いて物先・志山・淡海・妙喜・伽陵・潭海等の大德が歷住し、月船以來の參禪道場は益、盛大を加ふる至つたが、潭海の代、偶、王政維新に、故在つて潭海和尙は常寺を去り、永年繼承して來た道場を閉鎖するの止むなきに至った。此時、天敬和尙が、玉泉寺に在つて當寺を兼務し、當寺永遠の基礎を定むるため、明治十七年、從來の當寺及び僧堂を廢して、東輝菴を寶林寺と改めた。明治三十三年、雲外和尙の代に、年歷久しく廢頽した堂宇の再建を企畫したが、前住洪岳禪師も叉、當寺再建の擧を聞いて、率先、其資を寄與せられた等の事があり、明治四十五年、再建の功を遂げて、莊嚴なる靈場と化したのが、則ち今の本堂である。今の寶林寺卽ち舊東輝菴は、月船禪師の開基したものであつて、峨山・迦陵・湛海・洪岳・眞淨・大休等の名僧が歷住し、維新の初め、潭海の代に中絕した禪道硏讃の道場も、明治十七年、天敬和尙の代に再建され、諸方の雲水が再び蝟集して、竹笠・頭陀の僧、日々數十名は一列となつて、當寺から、橫濱市中及び附近の町村を托鉢したので、寶林寺の名は四邊に聞え、禪門唯一の道場となつた。今尙、俗人の禪門に學ぶもの、漸く多きを見るに至つたのは、本道場に於ける名僧が長年の指導の效であると讃へる者が多い。
本尊
本尊は釋迦如來の坐像、長凡一尺九寸、藤原氏時代の作と云ふ。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


永田山寶林寺所蔵の文化財

  • 東輝庵諸師資料(横浜市指定有形文化財)

東輝庵諸師資料

長田の宝林寺[元名宝地庵、開山円覚寺一〇二世大雅省音、応永二六年(一四一九)寂、大覚派龍隠末]に、延享寛延の交(一七四七頃)、月船禅慧(一七〇二 八一)が隠居し、
東輝庵と称したと言われています。
月船は奥州田村郡の人で、古月然材(一六六七-一七五一、開山派霊雲系)の系統に属し、博多聖福寺の仙厓義梵、仙台瑞鳳寺の古梁紹岷、鎌倉円覚寺の誠拙周樗ら、多くの俊秀を育て、本覚浄妙禅師の勅謚號を与えられました。
東輝庵の諸師は宝林寺の世代を兼ね(月船は宝林寺一八世に当たる)、峨山慈棹(白隠系)、物先海旭(古月系)、志山梵俊(古月系)、公邦□寛、盤谷祖(原)珍(以下白隠系)・妙喜宗績・迦陵瑞迦伽・潭海玄昌と続きます。
いずれにしても、月船が五山派であった円覚寺末の寺院内に庵居してその世代を兼ねたことは、臨済宗史上特筆すべきことであると共に、行雲流水の一比丘が宿り木の如く三十余年に渉って法を説き続けたことは、原始仏教集団の再現を彷彿させるものがあります。
これらの諸師の関係資料は近世禅宗史研究上貴重なものです。(横浜市教育委員会掲示より)

永田山寶林寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「南区の歴史」
  • 「横浜市史稿 佛寺編」