大慈山玉泉寺。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場、横浜弘法大師二十一箇所
玉泉寺の概要
高野山真言宗寺院の玉泉寺は、大慈山瑠璃院と号します。大慈山玉泉寺は、空賢(天正10年1582年寂)が開山となり天正5年(1577)に創建したといいます。東国八十八ヵ所霊場39番、横浜觀音三十三観世音霊場29番、、横浜弘法大師二十一箇所11番です。
山号 | 大慈山 |
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院号 | 瑠璃院 |
寺号 | 玉泉寺 |
住所 | 横浜市南区中村町1-6-1 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉泉寺幼稚園 |
玉泉寺の縁起
大慈山玉泉寺は、空賢(天正10年1582年寂)が開山となり天正5年(1577)に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による大慈山玉泉寺の縁起
(中村)玉泉寺
除地、二段十八歩、東の方なり、古義眞言宗、石川寶生寺の末、大應山瑠璃光院と號す、開山空賢天正十年二月十二日寂す、本尊薬師。(新編武蔵風土記稿より)
「南区の歴史」による玉泉寺の縁起
大慈山瑠璃院玉泉寺(中村町1-6)
天正五年五月の創立。往時は鎮守八幡宮、第六天社、稲荷社、諏訪社、山王社の別当を兼帯したが、明治維新後神仏は分離した。大正一二年九月一日の関東大震災で九間に五間半の本堂、一三間に六間半の庫裏、冠木門や宝物の悉くは灰燼に帰した。大正一三年一一月仮本堂以下を再建した。昭和六年本堂二〇二坪の本建築を行なったが、昭和二〇年雄勝二九日の横浜大空襲で焼失した。昭和三三年五月鉄筋コンクリート造、瓦葺、本堂一四〇坪が竣工し落慶式を行なった。本堂欄間には薬師浄土を現した一二支と十六大菩薩、両部曼荼羅を繊細荘厳に望月秀晃氏の鑿跡も美しく彫刻されて嵌込まれてある。構図の企画は嚴住職によったものである。本尊薬師如来立像六二センチ。伝によれば、藤原末期の作といわれ、罹災後、新らたに本山より付与されたものである。(「南区の歴史」より)
「横浜市史稿 佛寺編」による玉泉寺の縁起
玉泉寺
位置及寺格
玉泉寺は、大慈山瑠璃院と號し、中區中村町一千三百二十番地にある。境内は千二百七十四坪四合四勺五才。大本山、高野山金剛峯寺の末寺、一等格院で、今、市内觀音三十三所の第二十九番、同弘大師二十一箇所の第十一番の靈場に數へられてゐる。
沿革
天正五年五月の創立で、開山は空賢である。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末帳に、石川寶生寺末、玉泉坊御除と見える。當時は本寺門徒の中で、上通の格式を具へて居た。新編武藏風土記稿には、大應山とあり、明治三年九月の書上には、大慈山とある。大應は大慈の誤記か、或は何時の頃に改稱したものか。往時は鎭守八幡社・第六天社・稻荷社・諏訪社・山王社の別當を兼帶してゐたが、維新の際に分離した。明治七年、元町增徳院の末寺となつた。
大正十二年九月一日、大震火災に罹り、九間に五間半の本堂、十三間に六間半の庫裡、九尺の冠木門、及び寶物等を悉く灰燼に歸した。同十三年十一月、假本堂以下を再建し、十五年六月二十九日、大本山、高野山金剛峯寺の直末となつた。
本尊
本尊は薬師瑠璃光如來木彫立像、高一尺七寸。傳に藤原末期の作で、震災後、新に本山より附屬されたものである。
堂宇
今の堂宇は假本堂、桁五間、梁間 七間、亞鉛葺。・庫裡、桁行三間、梁間八間。等である。
境内佛堂
境内佛堂。
大師堂。二間四面、亞鉛葺。弘法大師・藥師如來安置。
地藏堂。地藏菩薩安置。
附記。元は境外に觀音堂があつて、傳、行基作十一面觀世音を安置してあつたが、明治初年の頃に廢絕し、本尊は本寺に移され、後、大震火災に燒失した。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
玉泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)
- 「横浜市史稿 佛寺編」