東光山千蔵寺。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場
東光山千蔵寺の概要
高野山真言宗寺院の千蔵寺は、東光山醫王院と号します。千蔵寺の創建年代等は不詳ながら、多聞院の別寺として創建、慶尊法印が慶長2年(1597)に中興開山したといいます。東国八十八ヵ所霊場45番、横浜觀音三十三観世音霊場18番、横浜弘法大師二十一箇所19番です。
山号 | 東光山 |
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院号 | 醫王院 |
寺号 | 千蔵寺 |
住所 | 横浜市中区本牧元町12-16 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東光山千蔵寺の縁起
千蔵寺の創建年代等は不詳ながら、多聞院の別寺として創建、慶尊法印が慶長2年(1597)に中興開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による東光山千蔵寺の縁起
(本郷村)千歳寺
除地、南方にあり、古義眞言宗、石川寶生寺の末、東光山醫王院と號す、中興開山長雲寂年詳ならず、本尊薬師を安す、又不動の畫像を寺寶とす、弘法大師の筆なりと云。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿 佛寺編」による東光山千蔵寺の縁起
千藏寺
位置
千藏寺は東光山醫王院と號し、中區本牧町字、牛込二千七百三十七番地にある。境内は三百四十坪。民有地。大本山、高野山金剛峯寺の直末で、寺格は十六等、市内觀音三十三所の第十九番の礼所、市内弘法大師二十一箇所の第九番の靈場である。
沿革
口碑に據れば、當寺は本來が多聞院の別寺として創立されたものであると云ふ。多聞院は、十二天社の別當だつた關係上、葬儀の執行を忌避し、為めに隱居所と稱して、附近に當寺を建設した云々。但し其年紀は不詳。新編武藏風土記稿に、中興開山は長雲と云ひ、其寂年は詳かでないとあるが、過去帳には、慶長二年二月二日。慶尊法印の中興したところであると記してある。寛永十年二月議定の關東古儀眞言宗本末帳に、寶生寺末千藏寺、除地と載せてある。住持は字、箕輪にあつたが、寛文七年、住持榮辨の代に、現地に移轉したと云ふ。天明三年九月に住持覺遍が堂宇を再建した。此建物は金澤にあつた米倉丹後守の更衣所を移して改築したものであると云ふ。維新前までは八王子權現社、及び山王社の別當を兼ね、又、阿彌陀堂を進退してゐた。明治五年十一月、火災に罹り、舊記・什物等を併せて悉皆灰燼に歸した。翌六年再建、明治七年、市内增德院の末寺となつた。大正十二年九月一日の大震災に、本堂・庫裡共に倒潰したが、翌十三年八月に、現住慈海が再興を遂げ、大正十五年六月二十九日、大本山金剛峯寺の直末に改めた。
本尊
本尊は不動明王の立像、二尺一寸。脇本尊は如意輪觀音像及び弘法大師像。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
東光山千蔵寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿 佛寺編」
参考資料
- 新編武蔵風土記稿