東漸寺。横浜市中区大平町にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

天沼山東漸寺。東国八十八ヵ所霊場、横浜觀音三十三観世音霊場

天沼山東漸寺の概要

高野山真言宗寺院の東漸寺は、天沼山威德院と号します。東漸寺は、賢覺大德が文治年間(1185-1190)に創建したと伝えられます。元和年間(1615-1624)に學譽上人が再興、慶安2年(1649)には江戸幕府より薬師堂領4石9斗の御朱印状を受領しています。江戸期には北方村小名天沼にあり、北方皇大神宮や諏訪町諏訪神社の別当を勤めていました。明治33年当地へ移転しています。東国八十八ヵ所霊場43番、横浜觀音三十三観世音霊場27番、、横浜弘法大師二十一箇所12番です。

東漸寺
東漸寺の概要
山号 天沼山
院号 威德院
寺号 東漸寺
住所 横浜市中区大平町101
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



天沼山東漸寺の縁起

東漸寺は、賢覺大德が文治年間(1185-1190)に創建、当時の領主松野筑前守が堂宇を造立寄進したと伝えられます。元和年間(1615-1624)に學譽上人が再興、慶安2年(1649)には江戸幕府より薬師堂領4石9斗の御朱印状を受領しています。江戸期には北方村小名天沼にあり、北方皇大神宮や諏訪町諏訪神社の別当を勤めていました。明治33年当地へ移転しています。

新編武蔵風土記稿による天沼山東漸寺の縁起

(北方村)
東漸寺
村の北(小名天沼)にあり、古義眞言宗、石川寶生寺の末、天沼山威徳院と號す、中興深開は享保中の人なりと云、本尊不動名が二尺程立像なり、弘法大師の作なりとも、又は智證大師の作なりとも云、
薬師堂。薬師は永一尺五寸坐像なり、惠心の作十二神の像あり、皆運慶の作なりと云、薬師堂領四石九斗餘の御朱印は、慶安二年賜へり、
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阿彌陀堂
除地、二畝、村の中程なり、東漸寺の持、(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による天沼山東漸寺の縁起

天德寺
位置 
東漸寺は、天沼山威德院と號し、中區中村町字平樂百四十八番地にある。境内は七百二十九坪。高野山金剛峯寺の孫末、寺格は七等で、市内觀音三十三所の第二十七番、同弘法大師二十一所の第十二番の靈場である。
沿革
當寺は元、北方村天沼にあつた。因つて今尙、山號を天沼と稱して居る。寺傅に據れば、後鳥羽天皇の文治年間、賢覺大德の開基した所で、堂宇は時の領主松野筑前守の造立にかゝると云ふ。元和年間に、學譽上人が再興した。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗、本末竝寺領有無帳に、石川寶生寺末御朱印。と見えるが、御朱印の三字は、恐らく後の追記であらう。當寺藥師の堂領として、四石九斗餘の朱印状が附せられたのは、慶安二年十月十七日である。享保年間、深海が中典した。舊幕時代には、寶生寺の門徒中上通に位し、住僧は紋白袈裟著用の格式を帶び、太神宮及び諏訪社の別當を兼ね、叉。阿禰陀堂を進退してゐた。明治七年、元町增德院に轉屬。翌八年二月類燒の厄に罹り、其後假堂を營み、同三十三年七月十八日、住職川口了賢が現今の境内に移し、同三十七年六月、堂宇の再興を遂げ、翌七月二日を以て、入佛式を行つた。大正十二年九月一日の大震災には、幸に被害が輕かつたので、現住川口興智が一層寺蓮の興隆を企圖して、目下大伽藍造立の計畫を進めて居る。
本尊
本尊は藥師如來の坐像、高一尺五寸、惠心作。十二神將は皆、運慶作。
堂宇
現今の堂宇は本堂角屋造、外陣桁行五間半、梁間六間、内陣桁行三間、梁間一間半、總建坪三十五坪半、亞鉛葺。庫裡六十三坪 五合、亞鉛葺。・附屬屋五坪、亞鉛葺。・物置桁行四間、梁間二間、二階建、亞鉛葺。・湯殿建坪二坪二合 五勺、亞鉛葺。等である。
境外佛堂
境外佛堂である地藏堂は北方町天沼五百八十番地にあつて、延命地藏を安置してある。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


天沼山東漸寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿