光明寺。横浜市栄区上郷町にある浄土真宗本願寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

梅澤山光明寺。秦河勝創建、聖徳太子像

光明寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の光明寺は、梅澤山仙福院と号します。光明寺は、聖徳太子の側近だった秦河勝(新編相模国風土記稿では小野妹子)が当地巡回の折、梅林中に夜光を見つけ尋ねてみたところ聖徳太子十六才像があり、これを安置して堂宇を創建、梅沢山仙福寺と号したといいます。その後、北条泰時の招きにより浄土真宗宗祖親鸞上人が鎌倉に滞在した際、当寺52世了惠が親鸞上人に帰依、浄土真宗寺院に改めて仙福院としたといいます。戦国時代に入り、小田原北条氏は浄土真宗寺院を武田信玄に通じていると見做して弾圧、当寺は仮に禅宗寺院に改め、時の住職は江戸赤坂に逃れて専福寺を開創、小田原北条氏が滅んだ後、当寺は浄土真宗に復したといいます。江戸期には幕府より寺領13石の御朱印状を慶安2年(1649)拝領した、当地の古刹寺院です。

光明寺
光明寺の概要
山号 梅澤山
院号 仙福院
寺号 光明寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 横浜市栄区上郷町1054
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



光明寺の縁起

光明寺は、聖徳太子の側近だった秦河勝(新編相模国風土記稿では小野妹子)が当地巡回の折、梅林中に夜光を見つけ尋ねてみたところ聖徳太子十六才像があり、これを安置して堂宇を創建、梅沢山仙福寺と号したといいます。その後、北条泰時の招きにより浄土真宗宗祖親鸞上人が鎌倉に滞在した際、当寺52世了惠が親鸞上人に帰依、浄土真宗寺院に改めて仙福院としたといいます。戦国時代に入り、小田原北条氏は浄土真宗寺院を武田信玄に通じていると見做して弾圧、当寺は仮に禅宗寺院に改め、時の住職は江戸赤坂に逃れて専福寺を開創、小田原北条氏が滅んだ後、当寺は浄土真宗に復したといいます。江戸期には幕府より寺領13石の御朱印状を慶安2年(1649)拝領した、当地の古刹寺院です。

新編相模国風土記稿による光明寺の縁起

(上之村)光明寺
梅澤山仙福院と號す、浄土眞宗(西六條本願寺末、)聖徳太子草創の靈場にて仙福寺と號し、往古小菅谷村(出立川の邊なり、)にありて天台宗なり、五十二世の僧了惠(高中将某の末葉にて出家し南都北嶺に學業の聞えありしと云ふ)が時執権北条泰時親鸞を招き、鶴岡にて蔵經校合あり、時に惠、鸞に歸依し遂に子弟の約をなし、當宗となりて名を了心と改む(文永元年十一月廿九日寂す)其時北條時賴の母松下禅尼當寺に安置せる聖徳太子の靈像(注釈を読む) を歸依し、今の地に移して再建あり時に安貞元年八月なり、此時今の寺號に改め舊號を院に銘ぜしとなり、寺領も若干を寄附せしかど小田原北條氏領國の頃氏康領中當宗の寺院を追却せしかば(武田信玄、国府津眞楽寺を押て陣所とせしを、氏康敵に内應せしとて大に怒り、領内當宗の寺院を廢す、)假に禅宗に改め、住侶は江戸赤坂に移り、當宗の一寺を建て寺號は舊號を唱へ仙福寺と號す、今江戸赤坂寺町専福寺(今麻布善福寺末に隷せり)是なり(注釈を読む) 北條氏の末に至り爰に歸住し、當宗に復せしと云ふ、寺領十三石は慶安二年八月御朱印を附せらる、本尊彌陀を安置し本堂に梅澤山の額を扁す(注釈を読む)
【寺寶】
六字名號四軸(一は北條時賴、一は親鸞、一は蓮如、一は證如の筆)
九字名號一軸(如信筆)
五字名号一軸(覺如筆)
文章二通(證如筆)
教喩詠歌一本(注釈を読む)
發句一軸(證如筆)
歌ノ彌陀一軸(源信筆)
阿彌陀經一巻(北条時賴筆、)
熊野権現繪傳一巻(後柏原院の時、勾當内侍の筆と云ふ、)
鐘樓。鐘は安永六年の再鑄なり、
支院
光榮寺。本坊十九世明祐、寛永十二年建つ、本尊彌陀を置く、
妙専廢寺。本坊十六世徳善、慶長四年建つ、本尊彌陀は長八寸許蓮如作、當寺中古廢して未再建に及ばず、(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による光明寺の縁起

光明寺(上郷町一〇五四番地)浄土真宗西本願寺派
梅沢山と号し、京都西本願寺派の末寺で、本尊阿弥陀如来を安置している。寺伝によれば往昔秦河勝が、相模国を巡回の折り、鎌倉郡山内荘出立川の辺(現小菅谷町南部)に至ったとき、梅林中に夜光を見、たずねてみれば、それは聖徳太子十六才の像であった。これ誠に奇瑞であると、いうことで河勝は一宇の草庵を建立し、梅沢山仙福寺(天台)と号した。以後天台宗を奉じた寺院として重きをなしたが、五十三代了恵のとき、たまたま親鸞の関東下向にあい、その教化によって弟子となり、法名を了心と改めると共に、寺も天台宗から浄土真宗に改宗したといわれ、従って現在了心を開山と仰いでいる。その後鎌倉期に入り執権北条時頼はその母堂松下禅尼菩提のため寺領を寄進し、河勝の故事を尊んで、梅沢山仙福院光明寺と称号を改めたという。鎌倉幕府滅亡のときは、兵火にかかり、現在地に遷り再建することができたが、後北条時代になると、北条氏の一向宗(浄土真宗)弾圧にあい、苦難の道をあゆみ、時に改宗をせまられたこともあった。しかし、住僧はその弾圧に屈することなく、のみならず武田氏の小田原攻めには信玄より文書を以って、援助を請願された由が、西本願寺所蔵の「天文日記」に見えている。(「戸塚区郷土史」より)


光明寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿