康寧山専福寺|兵乱を避けるため鎌倉郡上郷から移転
専福寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の専福寺は、康寧山寶幢院と号します。専福寺は、遣隋使小野妹子が、聖徳太子報恩のために建立した一宇を草創とすると伝えられ、当初は法相宗寺院で鎌倉小菅谷出立川ににあったといいます。第57世善海の代に親鸞聖人に帰依、(天台宗より)浄土真宗に改めたといいます。善海は鎌倉の兵乱を避けるために赤坂一ツ木へ移転、中興開基したといいます。寛永12年江戸城の外堀工事に伴い、当地へ移転したといいます。(参照:梅澤山光明寺。横浜市栄区上郷町にある浄土真宗本願寺派寺院)
山号 | 康寧山 |
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院号 | 寶幢院 |
寺号 | 専福寺 |
住所 | 港区赤坂7-6-10 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
専福寺の縁起
専福寺は、遣隋使小野妹子が、聖徳太子報恩のために建立した一宇を草創とすると伝えられ、当初は法相宗寺院で鎌倉小菅谷出立川ににあったといいます。第57世善海の代に親鸞聖人に帰依、(天台宗より)浄土真宗に改めたといいます。善海は鎌倉の兵乱を避けるために赤坂一ツ木へ移転、中興開基したといいます。寛永12年江戸城の外堀工事に伴い、当地へ移転したといいます。
「赤坂區史」による専福寺の縁起
真宗本願寺派専福寺(山號及別號康寧山寶幢院、西本願寺末)臺町四十一番地
寺傳によれば、當寺は小野妹子の草創したもので、遣隋使妹子は歸朝の砌百済のために隋の答書を奪はれた罪に問はれたが、聖徳太子の申し宥めによつて免されたので、報恩のために一宇を起立し、太子の尊像を安置し奉り、尚ほ自分の像をも留めたと云ふ。
當寺はもと鎌倉小菅谷出立川に在り、草創當寺は法相宗、次いで天台宗に改めたけれど連綿した。しかるに第五十七世善海が親鸞聖人に歸依深くして、浄土真宗に改宗した。仍て當寺はこの善海を以て中興開基としてゐる。但、その寂年は詳かでない。
善海鎌倉の兵亂を避け、武州麻布善福寺と由緒あるによつて、同豊島郡貝塚之庄一ツ木村に引移り再建成就したが、其地は寛永十二年御堀工事に付御用地となつたので、現在の寺地六百九十五坪五合を替地として拝領移轉したものである。(「赤坂區史」より)
専福寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」