善福寺|港区元麻布にある浄土真宗本願寺派寺院

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麻布山善福寺|弘法大師創建、親鸞聖人が了海上人と法談、浄土真宗関東七ヶ寺

善福寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の善福寺は、麻布山と号します。善福寺は、弘法大師が関東地方へ巡錫した折に天長元年(824)創建したと伝えられます。その後鎌倉時代に親鸞聖人が配流されていた越後から帰郷する際、当寺へ立寄り了海上人と法談、了海上人は浄土真宗に宗旨を改めた上中興開山となりました。了海上人は東国に流されていた鳥羽院の皇胤信光の嫡男中将光政が荏原の住人実経の娘(一説では滋野井宰相の父)を娶って設けた子といい、大井光福寺で生まれ、浄土真宗の普及に尽力、光福寺などを中興、浄土真宗関東六老僧の一人と称されています。善福寺は浄土真宗関東七ヶ寺の一つと称され、江戸時代には寺領10石の御朱印状を拝領、数多くの末寺を擁していました。

善福寺
善福寺の概要
山号 麻布山
院号 -
寺号 善福寺
住所 港区元麻布1-6-21
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 善福寺麻布山会館
備考 -



善福寺の縁起

善福寺は、弘法大師が関東地方へ巡錫した折に天長元年(824)創建したと伝えられます。その後鎌倉時代に親鸞聖人が配流されていた越後から帰郷する際、当寺へ立寄り了海上人と法談、了海上人は浄土真宗に宗旨を改めた上中興開山となりました。了海上人は東国に流されていた鳥羽院の皇胤信光の嫡男中将光政が荏原の住人実経の娘(一説では滋野井宰相の父)を娶って設けた子といい、大井光福寺で生まれ、浄土真宗の普及に尽力、光福寺などを中興、浄土真宗関東六老僧の一人と称されています。善福寺は浄土真宗関東七ヶ寺の一つと称され、江戸時代には寺領10石の御朱印状を拝領、数多くの末寺を擁していました。

「麻布區史」による善福寺の縁起

麻布山善福寺(本願寺派)山元町三〇
本尊阿彌陀如来(傳恵心僧都作木造立像三尺)創立に就ては通史に於て之を詳述した。中興開山了海は建保元年四月十四日の生誕で、徳治元年十一月六日壽九十五を以て當寺に入寂した。今日尚ほ十一月三日より六日にかけて開山忌が執行され、三日三夜法要が營まれるが當日は自作と傳へる了海像を浴みする御身拭式が擧行され、檀信徒よりは蜜柑團子を笹にさした供物を奉ずる慣習がある。『東都歳時記』に「開山了海上人は、蔵王権現に祭りて境内別堂に安ず、麻布権現とも云ふ。今日開山忌にて則ち右の堂にて開山自作の木像を浴す、俗におゆひき又御身拭と云、この間阿彌陀経を讀誦す。五日の夜近邊の者、笹に團子蜜柑を付て納む、境内にまきて諸人に拾はしむ。」と載つて居り、江戸時代には非常に有名であつた。
十四世堯海上人以来、徳川幕府の庇護するところとなり、山元町・東町・西町・芝三田豊岡町等に於て一萬餘坪を、又荏原郡女塚(今の蒲田)の地を各寺領として賜はつた。従て将軍の来遊も屡々あり、休憩所として栖仙亭が設けられた。亭は現存せず僅かに服部南郭撰文の栖仙亭記に面影を偲ぶだけである。家光は境内の山形が亀に似てゐるところから亀子山の山號を賜はり、爲めに一時それを稱したことがあつた。又家光接木の将軍梅もあつたが今はない。
境内の大公孫樹は親鸞の遺木と傳へ、柳ノ井は空海の遺蹟と云ふ。井は中門前に湧出する清水であるが、空海常陸鹿島明神に乞ふて得た阿伽井なりとて一に鹿島清水の稱がある。今も清水滾々と湧き出で、傍に高三尺八寸五分・幅一尺許りの楊柳水碑が建てられてゐる(名所舊蹟参照)。
考古學上知られた善福寺貝塚は逆銀杏の下一帶であると云ふが、現在では何の徴すべきものも見當らない。却つて寺背の臺地上に貝塚と縄文土器片の撤布を見る。
當寺は我が國外交史上忘つべからざる地として有名である。即ち安政六年(西暦一八五九年)六月三日幕命により、此處が米国の公使館に指定され、公使タウセント・ハリス・秘書ヒウスケン以下が滞留してゐたのである。
(中略)
境内に子院八ヶ寺が現存してゐるが『府内備考』を見ると文政の頃には末寺共十三ヶ寺あつたことが知られる。現存するものを列擧すれば専光寺・西福寺・善通寺・善光寺・光善寺・金蔵寺・真福寺・善正寺等である。西重寺と浄泉寺は維新前後に廢絶した。(「麻布區史」より)

善福寺所蔵の文化財

  • 善福寺本堂(港区指定有形文化財)
  • 善福寺開山堂(東京都指定有形文化財)
  • 麻布山善福寺勅使門
  • 善福寺のイチョウ(国指定天然記念物)
  • 柳の井戸
  • ハリス記念碑(初代アメリカ合衆国公使館跡)
  • 親鸞聖人像
  • 福沢諭吉翁の墓
  • 越路吹雪の碑

善福寺本堂

善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和36年に現在地で組上げたものです。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和4年(1767)に再建されたものです。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われます。
正面幅約28m、奥行約34m、入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとります。組物は尾垂木付の二手先です。
天明の大火[天明8年(1788)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政10年(1798)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されましたが、翌年八尾別院に再建されました。
本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。(港区教育委員会掲示より)

善福寺開山堂

開山堂ははじめ真言宗の蔵王権現として開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。
親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安置されることになった。かつては堂前でさまざまな行事も行われていたが、戦災焼失後再建されて、今は東京都の有形文化財となった。
像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。(境内掲示より)

麻布山善福寺勅使門

当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
当時の火災は免れたものの、昭和20年5月25日戦災を受けて焼失し、昭和55年11月5日の再建によって、現在の形を再び現わした。(境内掲示より)


善福寺の末寺・もと末寺、寺中寺

御府内寺社備考によると、末寺32ヶ寺、寺中に13ヶ寺を擁していたといいます。

御府内寺社備考による麻布山善福寺の末寺・もと末寺

御府内寺社備考によると、西本願寺(築地本願寺)寺中に9ヶ寺、武蔵国・相模国だけでなく下総国・甲斐国・伊勢国にも末寺を擁していたといいます。


御府内寺社備考による麻布山善福寺の寺中寺


善福寺の周辺図


参考資料

  • 「麻布區史」
  • 御府内寺社備考