小野弁天神社|甲斐武田氏滅亡に移住した小野氏が、新田開拓の際に勧請
小野弁天神社の概要
小野弁天神社は、横浜市鶴見区下野谷町にある神社です。小野弁天神社は、甲斐武田氏滅亡後に当地へ移住した小野氏が、新田開拓に際して江の島弁財天の分霊を勧請したと言います。
社号 | 小野弁天神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | 豊受開発稲荷社 |
住所 | 横浜市鶴見区下野谷町4-154 |
祭日 | - |
備考 | 単立法人 |
小野弁天神社の由緒
小野弁天神社は、甲斐武田氏滅亡後に当地へ移住した小野氏が、新田開拓に際して江の島弁財天の分霊を勧請したと言います。
新編武蔵風土記稿による小野弁天神社の由緒
(潮田村)
辨天社
村内南の方にあり、社巽向にて大さ九尺四方向て右に稲荷の小祠を建、光永寺持(新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による小野弁天神社の由緒
神社庁包括法人でないため記載なし(神奈川県神社誌より)
境内掲示による小野弁天神社の由緒
小野氏の祖は甲斐の武田氏の一族であったが、武田氏滅亡後、一族を率いて汐田に移住した。しかし、この地は東京湾よりの風浪のため、しばしば潮害を蒙ることが多かったので、徳川五代将軍綱吉公の頃、鶴見川口に堤防を築いてこれを防がんと計画した。当時これは仲々の難工事で、再三失敗を重ね容易に成就するに至らなかった。そこでこの上は日頃信仰する江の島弁財天の御加護を仰がんと、御分霊を勧請して堤防の起点に奉鎮したところ、その後は工事が順調に進行し堅固な堤防が見事に完成したのである。
爾来潮田の地は、潮害を蒙ることなく、人々は安全に家業に励むことができたので、地名を弁天下と称し村人は代々この弁財天を厚く尊崇して次第に繁栄し、又漁業を営む住民はこの地の鎮守の神としてこれを崇め信仰したのである。
この神社は、はじめ鶴見川口に北東にのびる防波堤の起点にあった。大正年間、小野茂行氏この附近芒原数万坪を埋め立て、神社の興隆を図り土地の発展に努めたのであるが、大正十一年、臨港鉄道敷設に際し隣接小野田一番地に遷座、後更に町内有志の協力を得て現在地に社殿を建立して、これを奉遷し、社名を小野弁財天神社と称え奉る。当神社は毎年六月大祭を執行、当地方の鎮守神社としていよいよ住民の崇敬をあつめている。(境内掲示より)
小野弁天神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿