一到山安養寺。鶴見七福神の弁財天
安養寺の概要
浄土宗寺院の安養寺は、一到山弥陀院と号します。僧慶誉(明応9年1500年寂)が開山したといいます。鶴見七福神の弁財天です。
山号 | 一到山 |
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院号 | 弥陀院 |
寺号 | 安養寺 |
住所 | 横浜市鶴見区岸谷1-22-12 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
安養寺の縁起
安養寺は、僧慶誉(明応9年1500年寂)が開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による安養寺の縁起
安養寺
字峰と云所にあり。海道の末右の方へ3丁40間余引込て山の下なり。浄土宗にて神奈川宿慶運寺末、一到山弥陀院と号す。開山は慶誉といふ。明応9年7月7日寂す。客殿6間四方、本尊三尊の弥陀長2尺許なるを安置す。中の像は弘法大師の作なりと云。左右の像は詳ならず。当寺は中古江戸芝増上寺より堂宇を再興して、松道と云僧を住職とせり。此時寺は同郡東子安村にありしと云。されど今東子安村にては土人此ことを傳へず。且此所へ移りし年代も詳ならず。
弁財天社。客殿に向ひ左の方にあり。3間に2間東向。神体は立像にて1尺許なるを安置す。弘法大師の作と云傳ふ
山王祠。弁天社の並にあり、東向小祠。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿佛寺編」による安養寺の縁起
安養寺
位置
安養寺は一到山彌陀院と號し、鶴見區生麥町一千八百八十二番地に在る。境内は六百九十二坪。官有地。神奈川區内慶運寺末で、寺格は准別格七等である。
沿革
明應の頃、慶譽と云ふ僧の開創したところである。今、子安町境字風早の邊に安養寺畑と呼ぶ處があるが、口碑に據れば、これは其古蹟で、もとは一草庵であつたのを、いつの頃か增上寺の嘆譽なる僧が、取建てゝ一寺となし、松道と云ふ僧を住持たらしめたと云ふ。今の境地に移つた年代も明かでない。其後、延寶四年、嚴譽上人が中興し、更に享保九年三月、廓譽の代に、殿堂の再建を遂げた。今の堂宇がこれである。降つて大正三年十二月、猛譽の代に庫裡を改築した。大正十二年九月一日の震災に、本堂が大破に及んだので、現住悅譽が改築修復を加へた。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、長二尺二寸。兩脇士は觀音・勢至の立像 長一尺八寸。である。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行七間、梁閒七間半、瓦葺、向拜附、破風造。・庫裡 建坪六十七坪、瓦葺。・山門桁行九尺、梁間九尺、茅葺。等である。
境内佛堂
辨天堂。桁行一間半、梁間二間、亞沿葺。本尊辨財天の立像 長一尺。は弘法大師作と稱せられ、廚子御戸帳の裏に左の記載がある。
南無阿彌陀佛
奉レ懸レ辨財天女御寶前一爲ニ現當安樂願行滿足一也。
元祿拾五壬午歲霜月廿二日 施主江戸新橋山王町關口氏丸屋源六敬白
宮建立開基安養寺廿五代生蓮社直往卽譽貨上人在判
又勸化帳の序に左の如くある。
抑ゝ當寺に安置し奉る辨財尊天は、近江國竹嶋生天女同木にて、弘法大師の御作、御丈七寸二分の尊像なり。その靈驗不可思議、擧て算ふるに遑非ず。然るに星霜押移りて、過し未年の大風に御堂破損に及ぶ。依て所願滿足の輩、擧げて再建の志を企て、他力をかりて成就せん事を願ふ。最勝王經辨財天女品に曰く、もし信心の人は、病苦橫難惡神の障礙を除き、子孫長久、四種の利益を得んと。委敷は緣起に讓りて爰に記さず。
武州神奈川領主麥村一到山安養寺三十三世沖譽
地藏堂。桁行九尺、梁間三尺、亞沿葺。石の六地藏を安置してある。。(「横浜市史稿佛寺編」より)
安養寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿