延慶山最願寺。横浜市鶴見区矢向
最願寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の最願寺は、延慶山実相院と号します。最願寺は、僧慶誉(明応9年1500年寂)が開山したといいます。
山号 | 延慶山 |
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院号 | 実相院 |
寺号 | 最願寺 |
住所 | 横浜市鶴見区矢向4-19-18 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
最願寺の縁起
最願寺は、宇多源氏源三秀義の末流宗重が開基となり、真言宗寺院として延慶元年(1308)に創建したと伝えられます。慶長年間(1596-1614)に祐源が東本願寺の教如上人に帰依して真宗に改め中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による最願寺の縁起
(矢向村)最願寺
良忠寺の東に隣れり。浄土真宗西本願寺末、延慶山実相院と号す。当寺古は真言宗にて江戸麻布善福寺の子院なりしと是誤なり、其事は下に弁ぜり。又寺伝に中興祐源の時に至り、初て浄土真宗の門に入て西本願寺に属せり。ゆへ、今是を開山となせりと。祐源は慶長十二年三月朔日寂す。按に往古真言宗の頃麻布善福寺のコインなりしと云ことは誤なり。いかにと云に、此寺の墓所に延慶二年の古碑ありて、是往古の開山の墳なりと傳へ、山号を延慶といへば其頃の起立なるべし。然るにかの善福寺の真宗の門に入しは、親鸞関東教化の頃なるよし。同寺にて傳ふる処なれば延慶以前の事なること明けし。よりを思ふに此寺往古真言宗の頃の本寺はなかりしにや。改宗の時に至りて始て善福寺の末寺となり、再本山の直末に属せしなるべし。寺傳に云処は語り傳への誤りあるならん。客殿五間に六間本尊弥陀を安置す。
鐘楼。門に入て左にあり。寛永七年鋳し鐘にて銘文考證によしなければもらせり。
古碑一基。境内墓所の入口にあり。青石の板碑にて長四尺余、幅一尺許なり。延慶二年二月九日と記せり。寺傳に往古真言宗なりし時の開山の墳なりといへり。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿佛寺編」による最願寺の縁起
最願寺
位置及寺格
最願寺は、延慶山實相院と號し、鶴見區矢向町六百四十九番地に在る。境内は二段一畝三步。官有地。京都西本願寺直末で、寺格は永代内陣列座である。
沿革
延慶元年の創建で、開基は宇多源氏源三秀義の末流宗重であると云ふ。寺傳に、當寺は往古眞言宗であつたと云ふが、開基の墓と傳ふる板碑に、彌陀三尊及び觀無量壽經の要文を刻したことから推せば、どうであらうか。慶長年間、住僧祐源、束本願寺敎如上人に歸依し、遂に眞宗に改め、江戸麻布眞宗大谷派善福寺の末に屬した。これを改宗第一世とする。同九年四月、本堂を再建した。其後元祿十年五月、第六世良賢、西本顧寺寂如上人に歸參し、本願寺派に轉屬し、寂如上人から木佛及び寺號、竝に宗祖見眞大師・顯如上人・聖德太子・七高祖等の影像等を附與され、且つ外陣列座を許可せられた。寶永七年、鐘樓及び梵鐘を、享保年間、第八世曉山の代に、表門を再建したが、安政三年の大暴風に倒壊したので、次いで再興した。明治十年,庫裡を、同四十二年、第十五世天城の代に本堂を,翌四十三年,庫裡の再建を遂げた。大正十二年九月一日の大震災に、鐘樓・表門が倒壊したが、同十四年に復興を了した。 維新前は同村外六箇村、市場・江ヶ崎・塚越・古川・下平間・上平間。の鎭守山王權現、現在の村社日枝神社の別當を兼帶して居た。當時の本地佛であつた白衣觀音、竝に棟札九枚を今寺寶として藏してゐる。
本尊
本尊は阿彌陀如末木立像、長二尺一寸である。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行五間、梁間五間、向拜附、瓦葺、四注造。・庫裡桁行六間半、梁間三間半、瓦葺。・鐘樓堂桁行一間半、梁間一間半、草葺。・山門桁行八尺五寸、梁間五尺五寸、銅葺。等である。(「横浜市史稿佛寺編」より)
最願寺所蔵の文化財
- 最願寺の板碑
最願寺の板碑
最願寺は、延慶山実相院といい、浄土真宗に属し、創立は延慶元年(1308)と伝えられ、開基は、宇多源氏源三秀義の末流宗重であるといわれます。はじめは真言宗でしたが、慶長年間(1596-1614)に祐源が東本願寺の教如上人に帰依して真宗に改め、元禄10年(1697)第6世良賢が西本願寺第14代寂如上人に帰参して現在にいたっています。
本堂前の碑は、緑泥片岩の本格派板碑で、碑高165㎝弥陀三尊の種字及び観無量寿経の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と、延慶2年(1309)2月9日の銘があります。
この板碑は、当寺開山の墓碑とも伝えられ、鎌倉時代後期の造立として貴重なものです。「新編武蔵風土記稿」には「古碑一基 境内墓所ノ入リ口ニアリ 青石ノ板碑ニテ 長四尺余 幅一尺許ナリ 延慶二年二月九日ト記セリ 寺伝ニ往古真言宗ナリシ時ノ開山ノ墳ナリトイヘリ」とあります。(鶴見区役所掲示より)
最願寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿