記主山良忠寺。良忠記主禅師創建、准秩父三十四観音霊場
良忠寺の概要
浄土宗寺院の良忠寺は、記主山然阿院と号します。良忠寺は、良忠記主禅師が、鎌倉光明寺と鵜の木光明寺とを往来の際に鶴見川より薬師像を見つけたことから禅師の名より山号寺号として弘安元年(1278)に創建、四十一世讃譽(寛保2年1742年)が中興したといいます。記主禅師は、鴻巣宿勝願寺や鎌倉光明寺など数多くの浄土宗寺院を開創した名僧です。
准秩父三十四観音霊場16番です。
山号 | 記主山 |
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院号 | 然阿院 |
寺号 | 良忠寺 |
住所 | 横浜市鶴見区矢向4-21-36 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
良忠寺の縁起
良忠寺は、記主禅師(良忠念阿弥陀仏)が、鎌倉光明寺と鵜の木光明寺とを往来の際に鶴見川より薬師像を見つけたことから禅師の名より山号寺号として弘安元年(1278)に創建、四十一世讃譽(寛保2年1742年)が中興したといいます。記主禅師は、鴻巣宿勝願寺や鎌倉光明寺など数多くの浄土宗寺院を開創した名僧です。
新編武蔵風土記稿による良忠寺の縁起
(矢向村)良忠寺
村の中程にあり、記主山然阿院と號す、浄土宗京都知恩院の末山なり、開山は記主禅師にて弘安元年の草創と云、記主の傳は同國足立郡鴻巣宿勝願寺の條に詳なり、當寺古は神奈川宿慶運寺の子院なりしが、四十一世讃譽の時に至り知恩院の直末に属せり、ゆへを以今是を中興の開山となせり、讃譽は寛保二年正月十四日示寂、寺傳に村内に十二天森と呼ぶ所あり、往昔記主禅師鎌倉光明寺に住して、荏原郡鵜木村なる光明寺へ往来の時、かの十二天森の邊にて頻に師を呼ものあり、あやしさのままつぎの日土人に命じてあたりを捜るに、鶴見川の淵より一軀の薬師像を得たり、師奇異の思ひをなして假に草庵を構へ、かの像を安置せしが其後終に霊場となりしかば、即り師の名を取て寺山號となせしと、今の地に移りし年歴は詳ならず、かの薬師は坐像の木佛にて長七寸許、龕中に蔵して當寺の寶物となせり、客殿七間に六間半、本尊三尊彌陀長二尺許なるを安置す。
寺寶。
薬師像一軀。此像の来由前に出す。
佛舎利七粒。
六字之名号一幅。大僧正祐天の筆なり。
袈裟一具。同人の着せしものと云。
善導圓光兩大師画像二幅。記主禅師の筆なり。
記主禅師木像一軀。
観音堂。門に入り左の方にあり、三間半に二間、如意輪観音の長一尺三寸許なるを安ず、往昔村内薔薇の叢生せる下より出現の像なれば薔薇の観音と尊稱せりと、今其舊跡を呼で観音といへり、薔薇は皆枯うせてなし。
鐘楼。門に入て右の方にあり、鐘は明和六年の再鋳にて元禄十七年の古銘を刻す。(新編武蔵風土記稿より)
「横浜市史稿佛寺編」による良忠寺の縁起
良忠寺
位置
良忠寺は、記主山然阿院と號し、鶴見區矢向町六百二十五番地に在る。境内は三段四畝二十五步。官有地。京都知恩院末で、寺格は準別格五等、新秩父坂東觀音 靈場の第六番札所である。
沿革
仁治元年に、淨土宗第三祖記主禪師良忠上人が、靈夢を感得し、鶴見川岸に於て藥師の尊像を得、而して建立したところであると云ふ。古來神奈川慶運寺の末であつたが、正德二年五月中に、京都知恩院の直末となつた。第四十一世讃譽徹玄の代に、祐天大僧正の助けを得て、本堂を改築し、諸莊嚴具を完備し、大に寺門の典隆を見た。降つて大正十二年九月一日、關東大震災に堂宇倒壊の厄に遭うたが、大正十四年、現住喜譽上人が再建を遂げた。
本尊
本尊は阿彌陀三尊、中尊は木彫の坐像。長二尺。兩脇士坐像。各〻長一尺五寸。惠心僧都作と云はれる。
堂宇
今の堂宇は、本堂桁行七間、梁閒九間、向拜附、銅葺、破風造。・庫裡桁行十三間一尺、梁間七間半。・山門桁行二間、梁間二間、銅葺。・鐘樓堂桁行二間、梁間二間、瓦葺。・休憩所桁行五間、梁間三間、亞沿葺。・納屋桁行五間、梁間四間、亞沿葺。等である。
境内佛堂
觀音堂。桁行九尺、梁間二間、瓦葺。本尊は如意輪觀世音菩薩 長一尺三寸。である。明和年中、蘆垣三郞右衞門なる者が、同所觀音堂と稱する地で薔薇の叢生した下から得て、奉納安置した所である。其後、新秩父坂東六番札所となつた。(「横浜市史稿佛寺編」より)
良忠寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「横浜市史稿佛寺編」