川向稲荷神社|川向村が成立した慶長年中に創建
川向稲荷神社の概要
川向稲荷神社は、横浜市都筑区川向町にある神社です。川向稲荷神社は、川向村が成立した慶長年中(1601)に、小机住吉神社境内社の伏見稲荷社の分霊を勧請して、村の鎮守として創祀したといいます。明治6年村社に列格、明治40年当地へ遷座したといいます。
社号 | 稲荷社 |
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祭神 | 倉稲魂命、水波女命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 横浜市都筑区川向町150 |
祭日 | 10月2日 |
備考 | - |
川向稲荷神社の由緒
川向稲荷神社は、川向村が成立した慶長年中(1601)に、小机住吉神社境内社の伏見稲荷社の分霊を勧請して、村の鎮守として創祀したといいます。明治6年村社に列格、明治40年当地へ遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による川向稲荷神社の由緒
(川向村)稲荷社
見捨地、三畝、村の北の方にあり、覆屋二間に三間半、内に小祠を置東向なり、前に鳥居を立、村の總鎮守にして、例祭年々七月二十二日、村持、この祠はもと村の中央にありて、其あたりを本宮と云、わづかの塚今に殘れり。昔洪水の時かの地にありし松一株、此處へ流れよりて今に繁茂せり。 (新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による川向稲荷神社の由緒
創祀年月は不詳であるが、明治六年村社に列し、明治四十年現在地に移転した。(神奈川県神社誌より)
境内石碑による川向稲荷神社の由緒
小机領総鎮守住吉神社文書によれば「文禄年中(一〇七代後陽成天皇・一五九一年)まで小机村、川向村、本郷村は同郷であって郷社として住吉神社を奉斎していた。その後、慶長年中(一六〇一年)に三村が分かれた際、すでに住吉神社に、京都伏見稲荷大社より勧請奉斎されていた稲荷社の分霊を川向村と本郷村との村鎮守神として奉斎することになった」と記されている。
また、新編武蔵風土記稿によれば「稲荷社は、もと、村の中央本宮の地に奉斎されていたが、大風水害の災を蒙りて流失、社地の松の一株が、字松木戸の地に漂着して根づいたので、新たに、その地を社地と卜定して奉斎することになった」と記されている。その後、明治四十年に耕地整理が施行された際、長昌院と土地を交換して、現在の字宮前一五〇番地を社地として奉斎して現在に至っているのである。
その間、昭和五十三年六月十一日午後五時五十分、境内社地利用の町内会館が、浮浪者の放火に遇い、隣接の神社は危機に瀕したが、防災よろしきを得、屋根のみで一応全焼の災は免かれたが、破損が甚だしいため、新築の機運が熟し、隅に、境外社地が売却されたのを機に、稲荷社造営建設委員会が結成され、一年有余の日子を費して正一位稲荷大明神の格式にふさわしく、鉄筋コンクリートの入母屋造り・銅板葺き・丹塗りの華麗荘厳な社殿が、昭和六十年十月十日竣功して御遷座されたのである。(境内石碑より)
川向稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿