大西島八幡神社|鎌倉幕府成立以降の成立
大西島八幡神社の概要
大西島八幡神社は、足立区伊興にある八幡神社です。大西島八幡神社の創建年代は不詳ですが、境内掲示によると鎌倉幕府成立以降の成立ではないかといいます。
社号 | 大西島八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | - |
境内社 | 応神天皇、神功皇后、比売神 |
住所 | 足立区伊興5-13 |
備考 | - |
大西島八幡神社の由緒
大西島八幡神社の創建年代は不詳ですが、境内掲示によると鎌倉幕府成立以降の成立ではないかといいます。
境内掲示による大西島八幡神社の由緒
大西島八幡神社は、古老や関係者の語り伝えを総合判断すると、鎌倉幕府成立の一一九二年以降に創建されたものと思われます。足立博物館に八幡神社所有の板碑が保存されていますが、ほかには資料が何もありません。これは、あく迄推定ですが現山崎洋様宅の先祖(約五〇〇年)が現在の宅地を取得した際、前地主から管理の継承を受けておりましたが、功徳は独占せずに広く享受してもらうとの意向から大西島厨子で管理することになり、今日に至っております。
そもそも全国の八幡社のほとんどが一〇六二年源義家が奥州安部一族の反乱鎮圧(前九年の役)に出動し戦果を収められた後に多く建てられました。また、その後強力な味方であった清原一族の内紛にも陸奥の守という立場上介入しこれを鎮めました。この時、朝廷から費用は一切出なかったので義家は自己の全財産を部下の損失(死傷者)補償や褒賞に充てたということであります。これは全国の人々の知るところとなり、特に奥州への道筋である関東(伊興も含む)の人々の崇敬と信頼を集めました。後に頼朝挙兵の時には義家の信頼で関東一円は全部頼朝の傘下に馳せ参じました。これは仏教で言われる因果応報の実例ともいうべきものであると信じます。
また奥州の安部貞任、宗任の反乱鎮圧に向った時、伊興観音に先勝祈願をされたことは石碑に刻まれており、伊興地区の六本杉や甲塚、擂鉢塚も関係致しております。戦勝の帰路、観音堂に十三町歩の土地を寄進されました。
この義家の偉大な人間性や道徳を慕い、また義家の信仰する八幡神社が全国に数多く建てられたのも自然の成り行きと思われます。
大西島八幡神社の設立目的もこれにあるのではないかと推察されます。源義家の蒔いた種子が頼朝の成功に大きく貢献された善例が周囲の氏子にもよく理解されたものと思われます。地域社会の為に奉仕する豊かな人間性を育み培うことによって子孫の繁栄にもつながるものと思われます。
わずか十八戸の氏子の中から今日迄地域社会に貢献された人や他家に嫁がれて子孫が幸運に恵まれた方々は枚挙にいとまがありません。このため、信者氏子の方々から「運のよい八幡様」または「開運の神様」などと言われております。
ごく至近な例を見るとわずか十八戸の氏子の中から東京府会議員(現在の都議会議員)常田大蔵氏を筆頭に区議会議員二名程選出されそれぞれ、区政に又地域に大きく貢献されました。
これらは八幡神社の氏子が開運の恩恵を受けられたものと判断致しております。
このたびの鳥居の移動と境内拡張を記念して茲に八幡神社の由来を記し、氏子以外の地域の方々にも広く功徳の恩恵に浴され、繁栄されますよう祈念致すところであります。(境内掲示より)
大西島八幡神社の周辺図