葛飾区の寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

葛飾区の寺院|葛飾区の寺院一覧

葛飾区の寺院概要

葛飾区には本寺格の寺院4寺のうち、3寺が真言宗豊山派であることもあり、真言宗豊山派寺院が過半数を占めています。

中本寺格

葛飾区には、本山格の寺院や触頭を勤めた寺院はありませんが、中本寺格の寺院があります

江戸時代に御朱印状を拝領した寺院

御膳所

葛飾区青戸の寺院

葛飾区立石の寺院

葛飾区東立石の寺院

葛飾区白鳥の寺院

葛飾区四つ木の寺院

葛飾区東四つ木の寺院

葛飾区宝町の寺院

葛飾区堀切・葛飾区東堀切の寺院

葛飾区小菅の寺院

小菅はもと千葉袋(もとの上千葉町)のうちに所属していた村で、葛西領中の西端に位置しています。地名の由来については菅は「かや」であり、むかしこの辺一帯古隅田川に面し、蘆、茅などが多く密生していたところから、この名が生じたのではないかという説があります。また、「万葉集」巻十四東歌の中に「古須気呂乃、宇良布久可是能、安騰須酒香、可奈之家児呂乎、於毛比須吾左牟、コスゲロノ、ウラフクカゼノ、アドススカ、カシケコロヲ、オモヒスゴサム」と詠んだ句があります。この「古須気(こすげ)」を小菅に解し、もとの小菅町がその旧地であるという説がありますが、一般的には、「古須気」は北武蔵(埼玉県)に比定されています。また、小菅は土地の形成からみても古代にいてはまだ十分に陸化しておらず、地名としても中世の記録上にも確認できないことから、中世以降に成立した比較的新しい村のようです。(葛飾区HPより)

葛飾区西亀有の寺院

昭和40年10月、住居表示の実施により旧町名の砂原町が現在の西亀有1丁目~4丁目に改められました。「砂原」という地名は元禄時代にはじめてあらわれ、江戸時代初期に開墾された土地と推定されています。地名の由来は、むかしこの辺一帯が砂原の地であったため、はじめ砂地カ原と呼ばれ、それが砂っ原になり、やがて砂原になったものと言われています。この地は、東京低地が陸化する際に後退した海岸線付近に形成された砂州が発達しており、そのような事情が影響しているものと思われます。なお、砂原は江戸期~明治22年までは「砂原村」でしたが、明治22年~昭和7年の間、亀青村大字砂原と南綾瀬村大字砂原の2つに分かれていましたが、昭和7年葛飾区の誕生とともに、それぞれ砂原町上千葉町となりました。

葛飾区亀有の寺院

中世においては「亀無」、「亀梨」と呼ばれていました。東京低地には「亀」のつく地名が多く、生き物の「亀」ではなく、亀の背のような島状の土地の高まりから「亀」地名が生まれたものと思われます。江戸時代、正保元年(1644)幕府の国図作成の際、地元では「かめなし」の「なし」を忌みきらって「亀有」に改められたといわれています。戦国期には中川の対岸にある葛西新宿の宿場とともに葛西城の城下としてさかえ、江戸時代に至っても交通の要衝として繁栄しました。

葛飾区高砂の寺院

昭和7年10月1日、市郡併合で東京市葛飾区が誕生する前は「曲金」(まがりかね)といいました。「曲金」の地名は、すでに室町時代には成立していた古い地名です。地名の由来は定かではありませんが、「曲」とは川が蛇行している様、「金」とは淵という意味もあることから中川(旧葛西川)との関わりで付けられたものと思われます。一説に古代の官道に設けられた「河曲駅」の遺地とする説、中世の条里跡(区画整理の跡)という説などがありますが、いずれも根拠に乏しく再考すべきでしょう。明治になって地元の人びとの間から、読みにくい、金が曲がるなどあまり語調がよくないとの声が出て、明治9年(1876)地租改正のとき、全国の地名から須磨・明石・朝妻・墨田・高砂・出雲・吾妻など謡曲に因んだ名前を選び小字名につけました。昭和7年、葛飾区が誕生したとき、一番縁起の良い高砂だけが区の町名に残され、東京市に引き継がれ今日に至りました。(葛飾区HPより)

葛飾区柴又の寺院

柴又といえば、近年は「フーテンの寅」さんの故郷として、全国的に知られる観光の名所となっています。奈良東大寺の正倉院に保管されている「養老五年(721)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に「嶋俣里」の記載があり、この「嶋俣(しままた)」が「しばまた」に転訛したものです。ちなみにこの奈良時代の戸籍にはトラとサクラの名が記されており、映画よりも千二百年余も前にすでにこの地にトラとサクラが暮らしていたことがわかりす。「嶋俣」の由来は「嶋」はデルタ地帯に形成された島状の地形をあらわし、「俣(また)」とは河川が合流する地点を意味しており、当時の地形景観から名付けられた地名です。中世以降、「しばまた」の表記は、柴俣、芝又、芝亦、柴亦など種々の字が当てられしたが、現在の「柴又」となったのは江戸時代以降のことです。(葛飾区HPより)

葛飾区細田の寺院

江戸時代初期、はじめ曲金村の新田として開墾され細田村となりました。地名の由来は、一説では、慶長年間に紀州熊野の細田某がこの地に来て開発したためといわれています。どうやら「新田」ということから江戸時代以前は開発されていなかった土地だと思う方が多いようです。元々は曲金地域の一部で、少なくとも中世の室町期には開発され、人々が暮らしていました。なぜそのようなことがいえるのかというと、室町時代に荒廃した土を改めて開発し直したことから、「細田」という新しい地名が誕生したのです。(葛飾区HPより)

葛飾区鎌倉の寺院

地名の由来については、昔、相模国鎌倉郡(神奈川県)から源右衛門という人が来て開発したことにちなんでつけられたといわれる説、鎌倉八幡宮御神体をこの地に移したためと言われている説、また北葛飾郡(埼玉県)鎌倉村の飛地であったためなどの諸説がありますが、中世の古文書には「鎌倉」なる郷の地名は確認できないことから、江戸時代以降に成立した村名と思われます。またこの地は、曼陀羅(まんだら)村という異名でも呼ばていました。その由来は、いつのころか村内から「南無妙法蓮華経」と刻んだ七字題目の板碑を掘出したことによるものと言われています。(葛飾区HPより)

葛飾区新宿の寺院

葛飾区金町・葛飾区東金町の寺院

鎌倉時代末、正中2年(1325)の年紀をもつ古文書に「金町郷」と記されており、それ以前に町場として成立したことがわかります。地名の由来は定かではありませんが、「町」とは、鎌倉へ通じる鎌倉街道に面し、江戸川の渡河地点という交通の要衝であることから古くから町場として栄えたことがうかがえます。「金」は淵という意味もあり、この地で江戸川が大きく蛇行することから、江戸川との関係でつけられたのかもしれません(葛飾区HPより)

葛飾区東水元の寺院

葛飾区水元・葛飾区西水元の寺院

水元と言う呼び名は、小合溜(旧名・小合溜井、こあいためい)からきていると言われています。この小合溜井は、幕府が享保14年(1729)、治水のために井沢弥惣兵衛に命じて中川を開削させたことにはじまり、平時は、東葛西領50余町村の灌漑用水(上下之割用水)として利用された水源地でもありました。小合溜井が田畑を潤す水の流出口であったことから、水の元、水元となったと言われています。明治22年、江戸期の上小村下小合村・小合新田・猿ケ又村・飯塚村が合併し、南葛飾水元村となりました。更に昭和7年、葛飾区の誕生とともに、水元村は、水元小合上町・水元小合町・水元小合新町・水元猿町・水元飯塚町となり、いずれの町名にも「水元」の名称がつけられています。
これらの各町名は、昭和56年、住居表示の施行にともない東水元・水元・水元公園・南水元と変わり、現在に至っています。(葛飾区HPより)
  • 仏生山遍照院(真言宗豊山派)
    葛飾区水元5-5-33
  • 浄土真宗聞法閣大聖寺(浄土真宗系単立)
    葛飾区水元5-13-5
  • 竜灯山安福寺(真言宗豊山派)
    葛飾区西水元1-7-19
  • 鏡智山円蔵寺(浄土宗)
    葛飾区西水元3-17-7
  • 悠照寺(真言宗)
    葛飾区西水元4-18-21
  • 見池山法林寺(浄土宗)
    葛飾区西水元6-14-18

葛飾区奥戸の寺院

「奥戸」は「奥津」が転訛した地名です。東京低地には「戸」のつく地名が多くみられますが。「戸」は本来「津」を用いたもので、主として「港津」をあらわし、対岸へ渡ることにできるの渡河地点でもあります。この地は古代から河川との関わりが深く、川を利用した舟運が発達していました。「戸」地名はそのような状況を物語っているのです。奥戸地域は、地名が室町時代の文書にみられることや、この地から古墳時代から奈良・平安時代の集落が発掘されていることから、古代から開発されていた土地であることがわかります。江戸期から昭和5年まで奥戸村でしたが、その後、奥戸町となり、昭和7年葛飾区の誕生とともに、奥戸本町となりました。昭和41・43・47年の住居表示の実施により現在の奥戸1~5・7~8丁目、東新小岩6丁目となりました。(葛飾区HPより)

葛飾区新小岩の寺院

葛飾区東新小岩の寺院

葛飾区西新小岩の寺院