河原町稲荷神社|足立区千住河原町の神社

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河原町稲荷神社|やっちゃばの鎮守、千住七福神福禄寿

河原町稲荷神社の概要

河原町稲荷神社は、足立区千住河原町にある稲荷神社です。河原町稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には千住掃部宿川原町の鎮守として祀られ、明治維新後は千住町中組堤外西耕地の村社に列格、現在は東京都中央卸売市場足立市場(やっちゃば)の鎮守で、千住七福神の福禄寿が祀られています。

河原町稲荷神社
河原町稲荷神社の概要
社号 河原町稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
住所 足立区千住河原町10-13
備考 千住町中組堤外西耕地の村社、千住七福神福禄寿



河原町稲荷神社の由緒

河原町稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には千住掃部宿川原町の鎮守として祀られ、明治維新後は千住町中組堤外西耕地の村社に列格、現在は東京都中央卸売市場足立市場(やっちゃば)の鎮守で、千住七福神の福禄寿が祀られています。

足立風土記資料による河原町稲荷神社の由緒

東京府管下武蔵国南足立郡千住町中組堤外西耕地 村社稲荷神社
祭神 宇迦御魂命。
由緒 「不詳」明治6年7月5日ニ被定候。
社殿間数 本社、間口4尺奥行き9尺。拝殿間口3間奥行2間。祭礼物置間口5間奥行4間。
境内坪数 483坪 官有地第1種。
氏子戸数 150戸。東京府庁迄 2里19町。以上(足立風土記資料神社明細明治10年項より)

東京都神社名鑑による河原町稲荷神社の由緒

大東亜戦争戦禍に遭遇し、文献等焼失し、創立年代不詳であるが、古くより千住やっちゃばの守り神として崇められ、現在に至っているが、境内にある明治三十九年千住市場創立三百三十年大祭記念碑よりさかのぼれば、天正四年(一五七六)ということがうかがわれる。当社の創立年代も同時代と推測される。安永五年(一七七六)十二月御本殿御造営、文化元年(一八〇四)九月、拝殿御造営され、氏子はもとより多数の尊敬を仰がれる。花崗岩石大鳥居には当時の国学者武蔵国高内寛剛撰文「清明在上永燭八極 越仰景光 崇表霊徳」銘辞の文政十三年(一八三〇)五月建立、その他石造狛犬一対、嘉永三年(一八五〇)鋳物天水桶一対等奉納され、現存されており、当時の隆盛をみるものがある。明治二年通称千貫神輿完成。明治四十一年十一月、この年檜樹が奉納され「誓ひての後のたのみや夏小立」の記念碑がある。大正元年、大正天皇御即位記念に玉垣建立、昭和十二年五月鉄筋コンクリート造神輿庫および御影石玉垣建造し、社号棟の有馬良橘書を奉納し大祭が挙行せられた。(東京都神社名鑑より)

新編武蔵風土記稿による河原町稲荷神社の由緒

(掃部宿)稲荷社二宇
一は川原町にあり、一は橋戸町にあり、各町の鎮守なり、共に小塚原圓蔵院持(新編武蔵風土記稿より)

河原町稲荷神社所蔵の文化財

  • 金銅装神輿(足立区登録文化財)

金銅装神輿(千貫神輿)

金銅の金具で一面に装飾された木造漆喰の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。銅部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高二三八・五センチ銅部七三・五センチ基部方一二三・〇センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが実際の重量は四百五十貫でありこの大げさな通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若い衆が多勢いたので二天で担いだ神輿である。(境内掲示より)

河原町稲荷神社の周辺図