大川町氷川神社|千住七福神の布袋尊
大川町氷川神社の概要
大川町氷川神社は、足立区千住大川町にある氷川神社です。大川町氷川神社は、永仁2年(1294)に当地鎮護のために創建、大正2年に荒川放水路造成のため当地へ遷座したといいます。千住七福神の布袋尊です。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素盞嗚尊、倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 浅間神社、三峯神社 |
祭日 | 9月15日 |
住所 | 足立区千住大川町12-3 |
備考 | 千住七福神の布袋尊 |
大川町氷川神社の由緒
大川町氷川神社は、永仁2年(1294)に当地鎮護のために創建、大正2年に荒川放水路造成のため当地へ遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による大川町氷川神社の由緒
(千住町五町目)
氷川社
浅間社
稲荷社
これらの神社みな安養院持(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による大川町氷川神社の由緒
古老の口碑に、この地の開墾は宝治年間(一二四七-九)にはじまり、永仁二年(一二九四)に土地鎮護のために祠宇を建て、素戔嗚命を勧請し、鎮守氷川神社と称したという。当社は維新以前千住五丁目安養院住臓が別当を兼ねていたが、寺院に災害等があって、資料を焼失した。わずかに宝暦六年(一七五〇)九月、本社再建の石祠が存在している。大正二年五月二十二日、荒川放水路工事のため移転の止むなきにより、現在の地に大正四年十一月十日遷座した。(東京都神社名鑑より)
大川町氷川神社所蔵の文化財
- 大川町氷川神社富士塚(足立区登録有形文化財)
- 紙すきの碑(足立区登録有形文化財)
千住川田浅間神社富士塚
富士塚は文政7年(1824)築造。最近木花開耶姫命。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。 明治44年荒川放水路開削工事開始に伴い、大正5年5月、現在地よりやや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和43年6月現在地に移築復元され、今日に至っている。
塚は、富士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ3mである。
山頂に、天保2年(1831)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政7年(1824)のもので丸藤惣同行富士33度大願成就とある。
この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の枝講で、講名を、丸藤千住13夜同行と呼ぶ。講中は、千住5丁目と、千住大川町全域に及び、かつては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。
毎年7月1日祭礼が行われる。
紙すき碑
足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことが述べられている。
この歌碑は、天保14年(1843)6月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。
碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。
紙すきが、稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に二十一軒の問屋石が記されている。
荒川放水路開削のため、この碑は、大正6年に移転し、再建された。
足立の紙すきを物語る貴重な資料である。(足立区教育委員会掲示より)
大川町氷川神社の周辺図