千住神社|千住七福神恵比寿神、旧郷社
千住神社の概要
千住神社は、足立区千住宮元町にある神社です。千千住神社は、延長4年(926)に創建された千崎稲荷神社と、弘安2年(1279)に創建された氷川神社が明治6年に合祀された西森神社を起源とし、明治7年には郷社に列格しました。大正4年に千住神社と改称、千住七福神の恵比寿神をはじめ、多くの末社摂社を祀っています。
社号 | 千住神社 |
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祭神 | 須佐之男命、宇迦之御魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 浅間神社、八幡神、道祖神、和合神、御嶽之神、北野神 |
住所 | 足立区千住宮元町24-1 |
備考 | 郷社、千住七福神の恵比寿神 |
千住神社の由緒
千住神社は、延長4年(926)に創建された千崎稲荷神社と、弘安2年(1279)に創建された氷川神社が明治6年に合祀された西森神社を起源とし、明治7年には郷社に列格しました。大正4年に千住神社と改称、千住七福神の恵比寿神をはじめ、多くの末社摂社を祀っています。
千住神社石碑による千住神社の由緒
当神社は、千住に集落が形成された、延長4年(926)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承6年(1051)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ツ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。
弘安2年(1279)に武蔵国、一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為にここを二ツ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が鷹狩りを行ったという記事が随所に記録されている。
寛永年間に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治5年11月18日、両社は村社と定められ、更に翌6年6月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年7月5日に、足立区内最高唯一の郷社と定められ、更に大正4年12月15日以来、千住神社と改称した。
昭和20年4月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、33年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。
足立区教育委員会掲示による千住神社の由緒
およそ一千年前、この地は千崎という丘陵で、原始的森林地帯であった。やがて開拓民がここに住みつき、延長4年(926)に稲作の神を勧請し、石造の祠を建て、千崎稲荷神社として五穀の豊作を祈願していた。
弘安2年(1279)氷川神社を勧請したので、二つの神社が原始林の中に並び、「二ツ森」とも言われて、住民の信仰を集めた。
江戸時代の初期、日光街道が開通すると、千住は初宿となり、宿場の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治6年千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して、西森神社と号し、大正4年に千住神社と改称した。
祭神は、須佐之男命と宇迦之御魂命の二神を祀り、明治7年に区内唯一の郷社に列せられた。当社殿は、昭和20年4月13日の空襲で焼失したが、氏子の厚い信仰と熱誠により昭和33年9月、現在の社殿(権現造り・流れ作り・神明作りの三者混合)が完成した。(足立区教育委員会掲示より)
東京都神社名鑑による千住神社の由緒
延長四年(九二六)土地鎮護・五穀豊穣を願い、祠宇を創営し稲荷神社を創立し、のち弘安二年(一二七九)武蔵一の宮より分霊を勧請し、氷川神社を稲荷神社の右隣に創立し、鎮守両社と称した。明治六年、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と改称し、のち大正四年千住神社と改称した。(東京都神社名鑑より)
千住神社の周辺図