谷在家赤城神社|浅香藤九郎源政家が土着した際、氏神を邸宅内に勧請
谷在家赤城神社の概要
谷在家赤城神社は、足立区谷在家にある赤城神社です。谷在家赤城神社は、浅香藤九郎源政家が戦に敗れ当地に土着した際、氏神の赤城大社の分霊を邸宅内に勧請、江戸時代中期(宝永年間:1748-1751・安永年間:1772-1780)に村有として祀ったといいます。
社号 | 赤城神社 |
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祭神 | 盤筒男命、赤城姫命 |
相殿 | - |
境内社 | ー |
住所 | 足立区谷在家2-16-17 |
備考 | - |
谷在家赤城神社の由緒
谷在家赤城神社は、浅香藤九郎源政家が戦に敗れ当地に土着した際、氏神の赤城大社の分霊を邸宅内に勧請、江戸時代中期(宝永年間:1748-1751・安永年間:1772-1780)に村有として祀ったといいます。
「赤城神社奉賛会掲示」による谷在家赤城神社の由緒
赤城神社は、盤筒男命、赤城姫命の二柱の神を主祭神として奉斎し、現在の鎮守赤城神社は浅香藤九郎源政家が戦に敗れ居城を放棄し、一族郎党数十名と共に武蔵国南足立郡谷在家村に落りしのび土着し屋敷内に上州大洞赤城大社の神体の一部を奉持来り、社殿を新設し一族の守護神とす。
群馬県勢多郡富士見村より家敷内に御分神した年号は明らかでないが、朝香家に伝わる古文書によると、宝永年中(一七〇四〜一七一〇年)今より二八五年前赤城明神社地境内附田地壱反五畝四歩を一郷の守護神として村中に寄進、村中連判を以てお代官様にお願いし御検地となり、村中相続一郷谷在家村の郷社となる。又明神地面壱反五畝四歩の処村中相続を以て米八斗五升と相定め御祭料として年々村方当番玄米八斗五升を受渡すと記してあり、時に寛延三年九月今より二三九年前の事である。これが昭和の代まで続く毘沙祭であろう。
又足立区史によれば御分神創建は「安永年間」喜平次「藤九郎直系子孫」というもの家敷神であったものを村有にしたと伝えられ祭礼は九月二十五日とある。
今度の造営に際し、旧社殿を改体したところ棟木に三箇の板碑発見する。それによると、
(1)文化十五年寅正月二十五日
石橋敷石供養 世話人 浅賀藤九郎
(2)文久四甲子歳二月大吉辰 棟梁朝香 庄治郎
又明治十二年巳卯九月建築とあり、幾星霜に耐えかね右記年代に改築した模様である。
大東亜戦争後、宗教法人設立について氏子に十八名が御神田を整理労力を出し合って境内地として現在に至る。
世界平和、国家安穏、氏子信徒の無病息災、福徳円満を謹んで祈願し今回の改築を記念し、由来を石碑に刻して後世に伝える。
平成元年九月吉日(赤城神社奉賛会掲示より)
谷在家赤城神社の周辺図