天下長久山国土安穏寺|千葉太郎満胤が開基、徳川家祈願所位牌安置所
国土安穏寺の概要
日蓮宗寺院の国土安穏寺は、天下長久山と号します。国土安穏寺は、日通聖人が開山、千葉太郎満胤が開基となり、応永17年(1410)に創建したといいます。将軍徳川秀忠・家光が、当所巡遊の折の御善所となり、寛永元年(1624)現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となったといいます。
山号 | 天下長久山 |
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院号 | - |
寺号 | 国土安穏寺 |
住所 | 足立区島根4-4-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
国土安穏寺の縁起
国土安穏寺は、日通聖人が開山、千葉太郎満胤が開基となり、応永17年(1410)に創建したといいます。将軍徳川秀忠・家光が、当所巡遊の折の御善所となり、寛永元年(1624)現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となったといいます。
足立区教育委員会掲示による国土安穏寺の縁起
日蓮宗、天下長久山国土安穏寺と称す。
創建は、応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。
当初は、長久山妙覚寺と称した。本尊ならびに中山三祖日祐聖人自作の祖師像がある。
江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。したがって当寺は、葵紋の使用を許された。
寺宝として、日蓮聖人の断簡、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがある。
なお、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。(足立区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による国土安穏寺の縁起
(嶋根村)安穏寺
日蓮宗、下総國葛飾郡中山村法華経寺末、長久山と號す、寺領五石の御朱印及び境内四千四百九十四坪の除地は、大猷院殿當山へ御立寄ありし時賜へりと云、開山日通は応永廿年四月廿日寂せり、本尊三寳を安し、又日蓮の木像を置けり、この像は日祐上人の彫刻にて、誦経の祖師と稱す、縁起あり、近き頃なりしものなれど、當寺の顛末及開山日通の傳を見るべし、其略に宗祖文永八年辛未九月十二日巨難を免かれ、翌十三年相州依智の郷本間六郎左衛門尉重連の舗に入る、本間の一族法華に帰依し、子孫永く宗風を仰ぐ、就中次男五郎重元、下総國正中山法華経寺第三祖日祐上人に謁し、宗祖の影像を拝し度由を頻にこふ、日祐其信心に感じ康永三年甲申自ら宗祖の木像を彫刻し、重元に授輿す、重元此像を渇仰し、終に子次郎重氏に譲る、重氏信心怠らず、且念願すらく我もし男子を求め得ば、直に出家せしめんと、其婦人或夜瑞夢に感じ、蓮華一堂懐に入ると見て竟に妊めり、時に延文元年丙申男子を生り、重氏感悦斜ならず、夢相に依て蓮千代麻呂と名づく、貞治元年壬寅七歳にして日祐に投じて剃髪せしめ、日通と號す、凡十三年祐師に給仕し、応安七年甲寅日祐寂す、日通遺命を弘宣し、堂舎を造営すること若干、此時に當て武州足立郡領千葉太郎領内嶋根の郷に、一宇を建立して己れ第一世に属し、寺號を長久山妙覚寺と名づく、時に応永十七年なり、元和年中徳廟當寺へ成せられ、寛永中猷廟数度成せられ、厳命にて安穏寺と改めらる、此時開基僧都日通祖父重元より傳ふる所の日蓮木像を、當山に安置しぬ、此像閑夜深更に及て誦経の音あり、故に誦経の高祖と稱す、昔より今に至り、毎歳正月三ヶ日は本堂に於て、丑の刻より陀羅尼品を誦して国家安全を祈祷し奉ると云、されば昔もしばしば當寺へ成せられし故を以て、御當代に至りても此邊御遊猟の時は、御膳所となれりと云。
鐘楼。明和年中に造りし鐘をかく。
三十番神堂。
御茶屋跡。大猷院殿御成のたび、ことに御休息ありし御舊蹟なりと云、正保中改の國図に、當村の傍に御茶屋と載たるはここのことにや。
塔中。良賢坊、受玄坊、今廃せり。(新編武蔵風土記稿より)
補足:本間六郎左衛門尉重連について
(葛飾郡彦成村)舊家者善右衛門
村の名主を勤む、本姓は本間にて今は小櫃を氏とす、相傳ふ祖先を本間孫四郎と云、其子孫六郎左衛門鎌倉将軍家に仕へ、相模國依智と云所に屋敷三ヶ所あり、僧日蓮由井濱危難の後、六郎左衛門是を護し、後彼宗門を崇信して三屋敷を捨て寺とす、足立郡島根村安穏寺開山もまた其一族なりと云、六郎左衛門が子孫六郎左衛門、慶長中に始て武州後谷村に土着し、田畑等開發し、寛永四年四月十三日死し、法名養玄と號す、養子勘解由より氏を小櫃に改む、此勘解由より三世善右衛門延寶年中當村に移る、今の善右衛門に至て五代なりと云、先祖の持し物とて槍一筋を蔵せり、(新編武蔵風土記稿より)
国土安穏寺の周辺図