石浜神社|浅草七福神の寿老神
石浜神社の概要
石浜神社は、荒川区南千住にある神社です。石浜神社は、神亀元年(724)聖武天皇の命により創建したと伝えられる古社で、源頼朝が藤原泰衡討伐の折に当社に祈願、大勝したことから社殿を造営されたといいます。浅草七福神の寿老神です。
社号 | 石浜神社 |
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祭神 | 天照大神、豊受姫神 |
摂社 | 江戸神社(素戔雄命)、亀香神社(手置帆負命・彦狭知命・工匠守護) |
末社 | 真先稲荷神社、招来稲荷神社、江戸神社、鹿香神社、北野神社、妙義八幡神社、粟島水神社、白狐社、大黒天、寿老神 |
住所 | 荒川区南千住3-28-58 |
備考 | 浅草七福神の寿老神、霊園募集中 |
御朱印はいけみずさんより寄贈
石浜神社の由緒
石浜神社は、神亀元年(724)聖武天皇の命により創建したと伝えられる古社です。源頼朝が藤原泰衡討伐の折に当社に祈願、大勝したことから社殿を造営されたといいます。
石浜神社の由緒
新編武蔵風土記稿による石浜神社の由緒
(橋場町在方分)神明社
村の鎮守なり、石濱神社朝日皇太神宮と称す、祭神は天照太神月読の尊なり、社地の外十石一斗の地を社領に免除せらる、当社は神亀元年九月十一日此地に鎮座すと云、例祭九月十六日社地にて生花の市あり故に生花祭と云、
末社。
天満宮、社地の内にあり、随神門を構へ別に一区をなせり、明和四年六月五日高辻大納言家長勧請す、則同人の扁額あり。
妙義。御霊二。力明神。以上天神社地にあり、力明神は石像にて覆屋なし。
荒香(アラコ)。祭神は手置帆負命彦狭知命なり、又手彦明神とも号す、工匠を司とる神なり、安永八年八月八日御大工棟梁溝口内匠か勧請なり、以下十三宇共に神明社の左右にあり。
牛頭天王、町分の鎮守なり、別に供免三段五畝の地を附す、例祭六月十五日神輿を船に乗て町中を渡す。
稲荷九。疱瘡神。淡島。大黒。水神。
智庸靈社。神主山城か祖父鈴木智庸社再建の功あり、故に此に祀と云。
弘祷靈社。是も神主鈴木弘祷を祀れり。
摂社真先稲荷社。神明社、東一町許を隔て別に一区をなせと神明除地の内なり、幣殿拝殿建続て頗る荘厳をなせり、社伝に拠に、昔千葉介平兼胤か家に傳へし神璽あり、此奇瑞により数の戦場に先懸の高名を得さることなし、其子季胤に至り神璽を常に膚に着ること恐ありとて、稲倉魂の神像を鋳させ戦場に出ることに草摺の内にこめしと云、天文年中千葉守胤石濱の城主たりし時、此地に宮柱を建かの神璽を祀り季胤か鋳させし像を前立として真先稲荷と崇祀ると云、其後往々祈願をなす者ありしか、延享の頃より殊に渇仰の輩多く、其頃一橋宗尹卿信仰ありて社頭を再建し祈願所とせられ、御子豊之助君(儀同三司冶済公御幼名)仙之助君疱瘡の時酒湯も当所より捧げしと云、今幣殿に掲たる鶴鷹の額は、宗尹卿浮田邊放鷹の時当社に祈念し鶴二羽まで得られし時、納られしものなりとなり、又将軍家いまた豊千代君と称し奉りし頃御参詣の時神符を捧け後御養君に立せ給ふに及ひて、御懐中の御守及ひ神符奉りしと云、此社前荒川の岸にて毎年夏越の祓をなす、其式京加茂の祓に異ならすと云。
社寶。
白狐玉一顆。
八形の鏡一面。鏡は天明六年五月酒井たヽつくの納めしものなりと社司の傳れと、其文字も定かならず、もし忠次ならんには年代違り、加之後世酒井氏にしてたたつくと唱るもいかかはあらん、とにかく傳る儘を記せり、圓径七寸裏面の図左の如し。
随身門。額殿。榎一株、稲荷社前にあり、神木なり、老樹にて大さ三囲許。
神主鈴木山城。京吉田家の配下なり、真光稲荷の側に住す、本社摂社共兼司れり。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による石浜神社の由緒
聖武天皇の御代神亀元年(七二四)九月一日の鎮座で、千二百六十年の旧社である。文治五年(一一八九)七月十九日、源頼朝は泰衡征討の時、奉幣祈願し、「神風や伊勢の内外の大神を武蔵野のここに宮戸川かな」の歌を献じ、当社において、伊勢の大祠を拝し、のち報賽のため宮殿を造営し寄進する。また弘安四年(一二八一)蒙古兵襲来のおり、当社には鎌倉将軍家お取次のもと官幣を立てらる。当社は、建久(一一九〇-九)・正治(一一九九-一二〇一)のころ繁栄をみ、ことに千葉・宇都宮氏の尊信篤く、神地十石一斗を領した。当時伊勢参宮困難な者は関八州より当社に詣で、祓を受けたと伝わる。(東京都神社名鑑より)
石浜神社所蔵の文化財
- 石浜神社鳥居(寛延2年銘)(荒川区登録文化財)
- 石浜神社鳥居(安永8年銘)(荒川区登録文化財)
- 庚申塔3基(貞享3年5月吉祥日銘他)(荒川区登録文化財)
石浜神社の周辺図