日照山法光寺|西郷若狭守正員開基
法光寺の概要
法華宗陣門流の法光寺は、日照山と号します。法光寺は、西郷若狭守正員(惠雄院殿日照居士、寛永15年1638年卒)が開基となり、寛永3年(1626)赤坂一ツ木に創建、後用地となって承応2年(1653)四谷南寺町に移り、その9年後に又々用地となって市谷本村へ移転、顯壽院日悦(寛文6年1666年遷化)が開山、行法院日悦(慶安3年1650年遷化)が中興開山したといいます。明治維新後当地へ移転しています。
山号 | 日照山 |
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院号 | - |
寺号 | 法光寺 |
住所 | 荒川区西日暮里3-8-6 |
宗派 | 法華宗陣門流 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
法光寺の縁起
法光寺は、西郷若狭守正員(惠雄院殿日照居士、寛永15年1638年卒)が開基となり、寛永3年(1626)赤坂一ツ木に創建、後用地となって承応2年(1653)四谷南寺町に移り、その9年後に又々用地となって市谷本村へ移転、顯壽院日悦(寛文6年1666年遷化)が開山、行法院日悦(慶安3年1650年遷化)が中興開山したといいます。明治維新後当地へ移転しています。
「四谷區史」による法光寺の縁起
日照山行法院法光寺は越後國蒲原郡本成寺末の日蓮宗であつて、市谷本村に所在し、境内古跡年貢地三百八拾坪、抱智三百七拾一坪を有した。寛永三年赤坂一ツ木村で起立し、後用地となつて承應二年四谷南寺町に移り、居ること九年又々用地となつて本村に轉じた。然るに地所狭隘なるが爲に大河内善兵衛の同心屋敷を借地とした所が、法度とあつて寛文八年其地を立開いて、九年現地を買収めて轉移し、同年二月古跡となつた。當時津守坂の往還は寺地であつたが、松平義行邸と尾州邸との通路開鑿の爲にこれを差出し、代償として境内南薬園明地を九十坪程増坪で得たと傳へてゐる。
開山顯壽院日悦は、寛文六年五月二十四日遷化し、中興開山は行法院日悦といひ慶安三年八月朔日を以て遷化したといふが、續府内備考の記す所であるが、中興は開山より早世と見えた。開基は西郷若狭守正員であるが、寛永十五年十一月十四日死去し、法名を惠雄院殿日照居士と號した。此寺地子古跡之寺社帳には南の方年貢地境内二百九十坪市谷法光寺と見えてゐる。(「四谷區史」より)
法光寺の周辺図