白山神社|文京区白山の神社
白山神社の概要
白山神社は、文京区白山にある神社です。白山神社は、東京十社の一社となっており、明治時代には准勅際社・府社に列格していました。白山神社の創建年代は不詳ながら、天暦年間(947-57)に現本郷一丁目附近に創建されたと伝えられています。元和2年(1616)二代将軍秀忠の命により現在の小石川植物園の地へ遷座、慶安4年(1651)白山御殿造立に伴い、明暦元年(1655)当地に遷座したといいます。五代将軍綱吉の生母桂昌院の崇敬篤く、元禄3年(1690)正月29日社領30石の御朱印状を拝領していました。地名白山は当社の在るところから、また小石川は、白山神社本社のある加賀国石川郡(石川県)より名づけられているといいます。
社号 | 白山神社 |
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祭神 | 菊理姫命、伊弉姫命、伊弉册命 |
相殿 | 大国主命・菅原道真公 |
境内社 | 八幡神社、関東松尾神社、浅間神社、福受稲荷神社、伏見稲荷社、合祀社(三峯・玉津島・天満天神・山王・住吉) |
住所 | 文京区白山5-31-26 |
祭日 | 例祭日9月21日 |
備考 | 旧郷社 |
白山神社の由緒
白山神社の創建年代は不詳ながら、天暦年間(947-57)に現本郷一丁目附近に創建されたと伝えられています。元和2年(1616)二代将軍秀忠の命により現在の小石川植物園の地へ遷座、慶安4年(1651)白山御殿造立に伴い、明暦元年(1655)当地に遷座したといいます。五代将軍綱吉の生母桂昌院の崇敬篤く、元禄3年(1690)正月29日社領30石の御朱印状を拝領していました。地名白山は当社の在るところから、また小石川は、白山神社本社のある加賀国石川郡(石川県)より名づけられているといいます。
東京都神社名鑑による白山神社の由緒
天暦二年(九四八)九月、加賀一宮白山神社を、武蔵国豊島郡元同本と号して、今の本郷元町に勧請。建武四年(一三三八)足利尊氏公により、国家平安御祈願所に命ぜられ、永百貫文の御判物を賜わる。元和二年(一六一六)徳川秀忠公の命により、小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安四年(一六五一)徳川家綱公の用地となり、明暦元年(一六五五)現在地に移奉。同年社頭そのほか造立。のちに将軍綱吉公と生母桂昌院の信仰を受ける。元禄年中(一六八八-一七〇三)までは本社・摂社・末社寄付、神器・宝庫はもちろん神官宅まで幕府より修繕を加えられた。寛文六年(一六六七)九月二十九日祭礼賑々しく執行致すべき旨申し渡され、御戸帳ならびに祭具等の寄付があり、元禄三年(一六九〇)正月二十九日旧幕府より、社領三拾石寄付。右朱印元禄六年(一六九三)九月二十九日戸田能登守忠真相渡される。元禄十六年(一七〇三)十一月二十九日小石川辺より出火、本社・摂社・末社・宝庫ならびに祭具のこらず、社中惣門等までことごとく類焼、宝永元年(一七〇四)六月十四日加藤越中守明英掛で仮殿手当として金五百両・檜五千挺寄付あり再建されたが、享保三年(一七一八)三月、再び火災にあい宝物・什器・祭具等ことごとく焼失。のちに再建し明治三十二年老朽せる拝殿を改築、昭和八年大改修し、同九年九月十八日盛大に正遷座大祭施行。当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。(東京都神社名鑑より)
「小石川區史」による白山神社の由緒
白山前町に在る。祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊、菊理姫命、本解男神、速玉男神である。其創建は、社傳に依れば、天暦二年に加賀の國の一の宮白山神社を移して勸請し奉つたもので、始めは本郷元町に在つたが、元和二年後の白山御殿の地に移り、明暦元年(御府内備考には慶安四年)白山御殿の造營と共に今の地に移つたといはれる。
江戸時代には境内四千餘坪あり、将軍綱吉及び其生母桂昌院殿の信仰を受けて大いに榮え、朱印三十石を賜はり、小石川の鎮守として参詣者多く、當時門前に参詣者相手の茶店、賣店等が立ち並び、非常な繁昌を来した事が『江戸名所圖會』及び『御府内備考』(白山社地門前の條)等に記されてゐる。
明治五年郷社に列せられ、其境内は二十四年公園に編入された。現状は、境内四百は地十餘坪、丘陵に據り、櫻杉などが繁り、銀杏の老樹も三四聳立して、往昔の杜鵑の名所の面影を傳へて居る。社殿は最近新たに造營せられて其尊嚴を加へ、社務所も目下造營中である。末社には嚴島神社、松尾神社、稲荷社、三峰神社等がある。
祭日は例年九月二十一日で、氏子町は、白山前町、指ヶ谷町、柳町、下富坂町、餌差町、表町、大門町、白山御殿町、本郷區丸山福山町、丸山新町、西片町、本郷六丁目、東・西竹町等である。
なほ、境内には昔源義家が奥州遠征の時、遥かに石清水八幡宮に祈願をこめ、旗を梢にかゝげて、草賊を退治したと傳へる名木旗櫻がある。又社殿の背後の富士山には淺間神社が祭られてゐる。此の山は春夏は緑葉に圍まれて登るに良く、秋冬の期は樹間より境内及び瓦屋櫛比の街衢を見渡すに良い。鳥居博士の説に從へば、此の山は古い丸塚を利用したものであるといふ。(東京都神社名鑑より)
境内掲示による白山神社の由緒
当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(948)9月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。
建武4年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍綱吉公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677)9月29日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。
元禄3年(1690)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693)9月29日戸田能登守相渡さる。元禄16年(1703)11月29日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704)6月14日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(1719)3月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9年9月18日盛大に正遷座大祭施行す。
なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。
当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。(境内掲示より)
文京区史跡さんぽ実施報告書による白山神社の由緒
社伝によれば、天暦年間(947-57)に現本郷一丁目に創開されたといわれている。元和年間(1615-24)二代将軍秀忠のとき、現在の植物園内に移された。しかし、五代将軍綱吉が、ここに白山御殿を造営されたので、現在地に再び移築された。明暦元年(1655)のことである。この縁で、綱吉の生母桂昌院の厚い信仰を受け、小石川の鎮守として栄えた。
祭神は、菊理姫命、伊弉諾命、伊弉册命の三柱である。境内に桜の老樹がある。
永承6年(1051)八幡太郎義家が奥州平定の途中、この社に寄り、この桜に旗をかかげ、戦勝を祈願したといわれている。そこで、この桜を旗桜といい、明治29年(1896)石碑を建て旗桜記が記された。
境内には、また、白山神社総代、各町会有志による、孫文先生座石の碑がある。
碑文の略記を記すと、次のとおりである。
明治43年(1910)5月中旬、神社近くに住む盟友、宮崎滔天宅に寄遇していた孫文は滔天と共に、白山神社の境内の石に腰掛け、中国の将来と革命について語り合った。そのとき、夜空に光芝を放つ、一条の流星をみた。このとき、祖国の革命を心に誓った。そして、清朝を倒した辛亥革命の最高指導者となり、中国国民党の創設者になった。孫文が流星を見て、清朝を打倒し、新中国建設を誓った場所を後世に残そうと、白山神社の清水宮司を中心に町会有志が、この記念碑を建立した。
孫文と滔天が見た、一条の光芝を放つ流星は、ハレー聾星ではないかと思われる。ハレー彗星が太陽に最も近づいたのは、明治43年(1910)4月20日であった。中国や日本では、むかし、この星を妖星と呼び、変事が起こるきざしと考えられていた。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)
白山神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 「小石川區史」
- 文京区史跡さんぽ実施報告書