駒込天祖神社|文京区本駒込の神社、駒込神明宮
駒込天祖神社の概要
駒込天祖神社は、文教育本駒込にある天祖神社です。駒込天祖神社は、源頼朝が奥州藤原泰衡追討に際して文治5年(1189)神明を祀り創建したと伝えられ、また或は今井茂義が永享11年(1439)に奉祀したともいいます。江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村の鎮守で、明治5年村社に列格してました。
社号 | 天祖神社 |
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祭神 | 天照大神 |
相殿 | - |
境内社 | 鎮火稲荷神社、榊神社、須賀神社、戸隠熱田神社、御林稲荷神社 |
住所 | 文京区本駒込3-40-1 |
祭日 | 例大祭9月16日 |
備考 | - |
駒込天祖神社の由緒
駒込天祖神社は、源頼朝が奥州藤原泰衡追討に際して文治5年(1189)神明を祀り創建したと伝えられ、また或は今井茂義が永享11年(1439)に奉祀したともいいます。江戸時代には駒込神明宮と称され、駒込村の鎮守で、明治5年村社に列格してました。
新編武蔵風土記稿による駒込天祖神社の由緒
(上駒込村)神明社
社地七百七十五坪は昔土人高木将監と云者の林園にて、其内に当社鎮座、其年代は傳へず、神體雨寶童子聖徳太子の作と云、固く鎖て開扉せず、前立像長一尺八寸又一体長一尺五寸近藤某寄附すと云、刊本縁起には鎌倉将軍頼朝勧請する所にして、後正和二年九月異僧より神體を授くと云然れども年歴久ければ傳来する所の説とも思はれず、本社端籬を設け幣殿拝殿まて畧備れり、社前に桜の老株あり例祭九月十六日神事あり。
神木。社後にあり松樹なり。
末社。熱田戸隠合祀、諏訪八幡稲荷合社、天王、稲荷、妙義金毘羅秋葉合社、三峯地蔵堂。
別当大泉院
松光山千寿寺と号す、本山修験氷川別当太乗印配下本尊不動、天和年中より当所に移る、百年前村民将監か計にて別当となる、世々本郷長學院より兼帯す。(新編武蔵風土記稿より)
「本郷區史」による駒込天祖神社の由緒
天祖神社
駒込神明町二番地に在り、古く神明社と稱する(新編江戸志江戸砂子)。祭神は天照大神であるが、創建の年月詳ならず、或は曰ふ源頼朝奥州征伐の時靈夢に感じて之を祀ると(江戸砂子)。其の實際は各町史富士前の條に記すが如く永享十一年八月今井茂義の奉祀所であらう。明治五年十一月村社に列した。九月十六日を以て祭日として居る。(「本郷區史」より)
東京都神社名鑑による駒込天祖神社の由緒
『江戸砂子』に「神明宮別当松光山大泉院聖護院派、駒込本村、神体雨宝童子聖徳太子作、長一尺五寸五分、駒込の総鎮守なり。当社は文治五年(一一八九)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、霊夢の事ありて藤九郎盛長に仰せ、其所を求めさせ給ふに、此所の松に大麻かかれり。因て神明を祀り給ふ。(中略)其後中絶して宮守もなく、唯神木の松の下に小祠のみありしを、慶安年中(一六四八-五二)堀丹後守利直再興ありしと云ふ。其時献る所の石燈籠今に存せり。此神木の松は享保年中(一七一六-三六)の回録に枯たり。(後略)」とある。(東京都神社名鑑より)
境内掲示による駒込天祖神社の由緒
江戸時代には駒込神明宮と呼ばれ、駒込村の総鎮守として信仰を集めた社である。祭神が天照大神であることから伊勢神宮の流れをくむ神明造りの神殿である。
社伝によれば、文治5年(1189)源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この当りに寄った折、夢で松の枝に幣がかかっているという神託があり、家臣藤九郎盛長に探させたところ、松の枝に大麻が見つかった。それで頼朝は神明を祀ったという。「江戸砂子」によれば、直径4尺(1.2m)余の神木であったが、享保年間(1716-36)に枯れた。
その後、宮守りもなく神社は跡絶え神木のもとに小さな祠のみとなったが、慶安年間(1648-52)堀丹後守利直が再興したという。
昭和20年2月25日空襲により焼失したが、戦後再建し、参道敷石の整備や大鳥居の建設、植樹などに心がけ、緑濃く落ち着いた雰囲気を持つ境内である。(駒込天祖神社境内掲示より)
駒込天祖神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 「本郷區史」