根津神社|東京十社、徳川家宣の産土神
根津神社の概要
根津神社は、文京区根津にある神社です。根津神社は、東京十社の一社となっており、明治時代には准勅際社・府社に列格していました。創建年代は不詳ですが、古くより千駄木に創祀、文明年間(1469~1487)には太田道灌が社殿を奉したといいます。当地は、五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)でしたが、家宣(六代将軍)の産土神として、綱吉により宝永3年(1706)千駄木にあった当社を移して造営され、社領500石の朱印状を拝領しました。当時造営された建造物は現存し、国指定重要文化財となっています。造営記念の祭礼は、正徳4年(1714)に、天下祭・宝永祭として盛んに行われたといいます。
社号 | 根津神社 |
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祭神 | 須佐之男命、大山咋命、誉田別命 |
相殿 | 大国主命、菅原道真公 |
境内社 | 乙女稲荷神社、駒込稲荷神社 |
住所 | 文京区根津1-28-9 |
祭日 | 例祭日9月21日 |
備考 | 府社 |
※御朱印画像はいけみずさんより寄贈
根津神社の由緒
根津神社の創建年代は不詳ですが、古くより千駄木に創祀、文明年間(1469~1487)には太田道灌が社殿を奉したといいます。当地は、五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)でしたが、家宣(六代将軍)の産土神として、綱吉により宝永3年(1706)千駄木にあった当社を移して造営され、社領500石の朱印状を拝領しました。当時造営された建造物は現存し、国指定重要文化財となっています。造営記念の祭礼は、正徳4年(1714)に、天下祭・宝永祭として盛んに行われたといいます。明治時代には准勅際社・府社に列格、現在は東京十社の一社となっています。
東京都神社名鑑による根津神社の由緒
景行天皇の御代、日本武尊が東夷征定の途次、武神須佐之男命の御神徳を仰ぎ創祀したと伝えられ、下って文明年間(一四七九-八七)には太田道灌が社殿を奉建している。江戸時代には将軍徳川綱吉が嗣子家宣の産土神として宝永三年(一七〇六)に現社殿を造営、千駄木の旧社地より遷宮、永代社領五百石を寄せた。その祭礼は俗に天下祭と称し、幕制により、その規模を定めて江戸全町を挙げて催され、特に正徳四年(一七一四)の祭礼は未曾有の盛儀で、江戸市民に語り継がれた。明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅祭社に准ぜられ、勅使を遣わされて国家安泰の祈願を修め給う等、古来の名社である。(東京都神社名鑑より)
根津神社所蔵の文化財
根津神社は、太平洋戦争で被災せず、徳川綱吉が造営した時の建造物が現存しており、建造物は国指定重要文化財となっています。当地は、六代将軍徳川家宣が誕生した地(父綱重の別邸)だったことから、家宣の胞衣塚(胎児を包んだ膜と胎盤を埋めた塚)が残っており、文京区指定有形文化財に、根津神社が造営された際の天下祭りが奉納された当時の神輿三基・付獅子二頭が文京区指定有形文化財になっています。
- 根津神社境内建造物(本殿・幣殿・拝殿・銅灯籠・唐門・西門・透塀・楼門)
- 徳川家宣胞衣塚(文京区指定文化財)
- 神輿三基・付獅子二頭(文京区指定文化財)
- 根津神社 神楽面(文京区指定文化財)
- 徳川家朱印状(文京区指定文化財)
- 庚申塔(六基・根津神社境内)
徳川家宣胞衣塚
六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月5日ここで生まれた。
胞衣とは、胎児(母胎の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚なあら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
本殿横には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。(文京区教育委員会掲示より)(文京区教育委員会掲示より)
神輿三基・付獅子二頭
根津神社(根津権現)は、五代将軍綱吉により、世継ぎの家宣(六代将軍)の産土神として、宝永3年(1706)千駄木にあった社を移し建てられた。
造営記念の祭礼が、正徳4年(1714)に、いわゆる天下祭・宝永祭として盛んに行われた。この時、神輿三基が奉納されて御神幸に用いられた。
神輿は、漆塗や金具などの後補があるが、本体部は初めのもので、製作年代の明らかな江戸神輿として貴重なものである。
獅子は、頭、尾および背布からなる二頭である。「江戸根津大権現神前額面之縮図」によれば、宝永祭の神輿行列を先導する獅子二頭が描かれている。神輿と同寺の製作と考えられ、天下祭りを偲ぶ重要な遺品である。
神輿と獅子を一対として指定した。(文京区教育委員会掲示より)
庚申塔(六基・根津神社境内)
ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。
正面から左回りに刻まれた像、銘文を見ると、
①青面金剛・猿・鶏・寛文8戌申(1668)・駒込村・施主15名
②観音像・庚申供養・施主12名
③日月・青面金剛・猿・延宝8庚申(1680)願主1名
この中で、⑤の庚申塔は、寛永9年(1632)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和5年のもので、これより9年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪魔を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。
庚申信仰は、中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申(かのえさつ・十干十二支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三尸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡米し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。
江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過ごした。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。(文京区教育委員会掲示より)
根津神社の周辺図