湯島聖堂|文京区湯島の史跡

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湯島聖堂|昌平坂学問所・昌平黌

湯島聖堂の概要

湯島聖堂は、文京区湯島にある名所史跡で国史跡に指定されています。湯島聖堂は、尾張藩主徳川義直が林道春(羅山)命じて寛永9年(1632)上野忍ヶ丘に開設した先聖殿という廟殿を前身とし、五代将軍徳川綱吉がこの廟殿を元禄3年(1690)渡島に移し、「大成殿」と改称、学寮等の附属の建物を総称して聖堂と称するようになったといいます。寛政9年(1797)には敷地を拡張し孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌)として開設、江戸時代の文教センターの役割を担い、明治維新後の東京大学の前身を果たしていました。

湯島聖堂の概要
名所旧跡名 湯島聖堂
みどころ -
入場時間 9:30~17:00(冬季は16:00終了)
入場料 無料
住所 文京区湯島1-4-25
備考 -



湯島聖堂について

湯島聖堂は、尾張藩主徳川義直が林道春(羅山)命じて寛永9年(1632)上野忍ヶ丘に開設した先聖殿という廟殿を前身とし、五代将軍徳川綱吉がこの廟殿を元禄3年(1690)渡島に移し、「大成殿」と改称、学寮等の附属の建物を総称して聖堂と称するようになったといいます。寛政9年(1797)には敷地を拡張し孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌)として開設、江戸時代の文教センターの役割を担い、明治維新後の東京大学の前身を果たしていました。

境内掲示による湯島聖堂の沿革

説明
寛永九年(一六三二)、尾張藩主徳川義直林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造營せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄三年(一六九〇)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政十一年(一七九九)大成殿及び杏壇・入徳・仲高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、舊に復せり。
建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(一九三五)四月四日鐡筋混凝土構造に依りて原型に復せり。
昭和十一年三月 文部省(境内掲示より)

境内掲示による湯島聖堂の沿革

島聖堂と孔子
孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生まれた人で、その教「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍綱吉は、元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら『論語』の講釈を行うなど学問を奨励した。
昌平坂学問所跡
寛政9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。
学問所教官としては、柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里、佐藤一斎、安積艮斎、鹽谷宕陰、安井息軒、芳野金陵らがおり、このうち佐藤一斎、安積艮斎らはこの地が終焉の地となっている。(境内掲示より)


湯島聖堂の周辺図