天皇山安閑寺|文京区白山にある真宗大谷派寺院
安閑寺の概要
真宗大谷派寺院の安閑寺は、天皇山と号します。安閑寺は、大連大友金村の季子金枝が、安閑天皇の霊を祀るため、推古天皇2年(594)剃髪して釋珍識と号し、大阪府石川郡に当寺を草創したといいます。天平年間に高屋へ移転、天皇山安閑寺と号した後、真言宗に属したといいます。建武年間に兵火に罹り三河国宝飯郡に移転、天正年間(1573-1592)浄土真宗に改宗、慶長年間(1596-1615)江戸へ下り、正保2年(1645)当地に堂宇を建立したといいます。
山号 | 天皇山 |
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院号 | - |
寺号 | 安閑寺 |
住所 | 文京区白山2-13-13 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
安閑寺の縁起
安閑寺は、大連大友金村の季子金枝が、安閑天皇の霊を祀るため、推古天皇2年(594)剃髪して釋珍識と号し、大阪府石川郡に当寺を草創したといいます。天平年間に高屋へ移転、天皇山安閑寺と号した後、真言宗に属したといいます。建武年間に兵火に罹り三河国宝飯郡に移転、天正年間(1573-1592)浄土真宗に改宗、慶長年間(1596-1615)江戸へ下り、正保2年(1645)当地に堂宇を建立したといいます。
「小石川區史」による安閑寺の縁起
天皇山安閑寺。真宗大谷派、東本願寺末。本尊は阿彌陀如来。當寺の開創は『文政書上』によれば釋善徹が寛永五年市ヶ谷田町に一宇を建立したに始り、後總堀御用地として田町の地が召上られたので、小石川築地へ移つたが、同所も亦承應二年御用地となつたので、更に正保四年現在の地に寺地を定めたとある。但し別の寺傳によれば、『當寺は往古より、安閑天皇の尊牌を安置す。天皇寶祚二年にして崩じ、河内國古市郷高屋の丘陵に葬る。時に大蓮の大友金村の季子金枝といふ者、殊に帝の寵遇を蒙りしを以て深く之を悲しみ、後に朝勤を辭して同國石川郷に閑居し、帝の靈を祀り、其子金麿と共に高屋の山陵を守護す。推古天皇の二年金枝剃髪して釋珍識と號し、第宅を以て道場となす。是即ち安閑寺草創の起原なり。聖武天皇の天平年間、石川の道場を高屋町に移し、一寺を経營して天皇山安閑寺と稱す。後空海上人の流れを汲みて、眞言宗となれり。建武年中兵焚に罹り、諸宇什寶悉く灰燼に歸し唯尊牌及び本尊空海の一軸を残すのみ。乃ち尊牌を守護して桑梓を去り、三河國寶飯郡に小なる菴を結びて寺跡を相續したりき。天正年中三十七世釋善徹大阪石山本願寺教如門主の法弟となり、眞言宗を改めて眞宗に歸す。慶長年中随喜の道衆三四名と共に、尊牌を奉じて關東に下り、江戸市ヶ谷に小庵を構へ、正保二年今の地に移る』とあるが、江戸時代以前の事跡については確固たる徴證がない。文政時代には境内古跡地七百坪、抱町屋敷六十九坪餘抱持添地百八坪と記されてゐる。江戸時代より名灸を以て知られ、今にそれを行つてゐる。現本堂は大正二年の改築である。(「小石川區史」より)
東京名所図会による安閑寺の縁起
安閑寺
(戸崎町)六十七番地にあり。當寺は往古より安閑天皇の尊牌を安置す。天皇寶祚二年にして崩じ。河内國古市郷高屋の丘陵に葬る。時に大連大友金村の季子金枝と云ふ者。殊に帝の寵遇を蒙りしを以て。深く之を悲み。終に朝勤を辞して同國石川郷に閑居し。帝の霊を祀り。其子金麿と共に高屋の山陵を守護す。推古天皇の二年金枝剃髪して釋珍識と號し。弟宅を以て道場となす。是即ち安閑寺草創の紀元なり。聖武天皇の天平年間石川の道場を高屋町に移し。一寺を経営して天皇山安閑寺と稱す。後空海上人の流を汲みて。真言宗となれり。建武年中兵火に罹り。諸宇什寶悉く灰燼に歸し。唯尊牌及び本尊空海の一軸を残すのみ。乃ち尊牌を守護して桑梓を去り。三河國寶飯郡に小なる庵を結びて寺蹟を相続したりき。天正年中三十七世釋善徹大阪石山本願寺教如門主の法弟となり。真言宗を改めて真宗に歸す。慶長年中随喜の道衆三四名と共に尊牌を奉りて關左に下り。江戸市中に小庵を構へ。正保二年今の地に移る。爾来連綿として寺運益々榮え。現住釋義謙は第四十七世に當るといへり。寺に名灸あり。(東京名所図会より)
安閑寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 東京名所図会