南縁山円乗寺|八百屋お七の墓所、昭和新撰江戸三十三観音霊場
円乗寺の概要
天台宗寺院の円乗寺は、南縁山正徳院と号します。円乗寺は、圓栄法印が天正9年(1581)本郷に密蔵院として創建、元和6年(1620)實仙法師が圓乗寺と寺号を改め、寛永8年当地へ移転したといいます。天和の大火の起因となった八百屋お七の舞台ともなった寺院で、現在も八百屋お七の墓所が残されています。昭和新撰江戸三十三観音霊場11番です。
山号 | 南縁山 |
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院号 | 正徳院 |
寺号 | 円乗寺 |
住所 | 文京区白山1-34-6 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 昭和新撰江戸三十三観音霊場11番 |
円乗寺の縁起
円乗寺は、圓栄法印が天正9年(1581)本郷に密蔵院として創建、元和6年(1620)實仙法師が圓乗寺と寺号を改め、寛永8年当地へ移転したといいます。
「小石川區史」による円乗寺の縁起
南縁山正徳院圓乗寺。比叡山延暦寺末、本尊は釋迦如来、観世音菩薩、創立は天正年中である。初めは本郷にあり、蜜蔵寺と號したが、明暦三年の江戸大火後、小石川に替地を賜はり、現地に移轉した。開山實仙法印は元和六年八月十日寂。文政時代には境内拝領地一千七百七十餘坪、門前町屋が七十七坪あつた。初めは東叡山末であつたが、後には比叡山直末となつた。江戸三十三ヶ所観音の内十一番に當り、境内には八百屋お七の墓があり、毎月五日廿日には縁日も開かれる。又寺内には別に彫金家海野美盛(初代文久二年歿、二代対象八年歿)の墓があり、猶ほ白山幼稚園も設けられている。(「小石川區史」より)
東京名所図会による円乗寺の縁起
圓乗寺は指ヶ谷町百二十二番地にあり。南縁山と稱し。正徳院と號す。天台宗。寛永寺末。開山實仙法師。元和六年の開基なり。門内正面に観音堂あり。大聖歓喜天を配す。観世音立像三尺(江戸三十三ヶ所第一番)、圓乗寺本尊は釈迦如来にして坐像三尺五寸餘。境内に法忍堂遺跡あり。又八百屋阿七の墓あり。
阿七の墓。
指ヶ谷町町天台宗圓乗寺内にあり。本堂の左。墓門を閉鎖し。札して阿七の墓といへり。
猥に入るべからず。
八百屋お七の墳墓は無縁ですから。参詣なさる人は。追善の為め。線香又は花を必ず手向てください。
即ち香華料を拂はざれば。阿七の墓は参詣し得ざるなり。
江戸砂子に云。お七が墓。法名妙榮。天和二年三月廿九日とあり。
阿七は駒込片町(竹町つづきかんしやうゐん片町なり)八百屋久兵衛といふものの女なり。元和二年の春火罪にをこなはる。世の知る所なり。されど事實相違の點あれは。今破柳骨抄に據り。其事實を掲げて。俗説を破るべし。
南縁山圓乗寺。古来天台宗にして数百年の霊場なり(世俗に元は日蓮宗のよし云ふとも俗説なり)境内に八百屋お七の墳墓あり。世人皆知る所なり是は當時の住僧菩提を吊ん為に建けるよしにて。小やかなる石塔の半より割たるが今も猶現存したり。世俗に八百屋某(或る書に太郎兵衛といへると見ゆ。住持記には元は北越の大諸侯に仕へし中村善兵衛と云ふ者なりしが。寛文年中浪人して町人と為る。駒込追分町なる某寺の門前に住みけるよし見へたり)は住居内縁のものといひ。一説には住持挿花を能するによりてお七は其弟子なりとも云へり。両説とも詳ならず。又側に弥陀三尊形の塔あり。これまたお七の菩提の為めに後人の建立しつるよしなれど。施主は何の頃如何なる人とも今明白には考へがたし。(東京名所図会より)
文京区史跡さんぽ実施報告書による円乗寺の縁起
八百屋お七に関しては異説が多く、フィクションの部分も多い。江戸期の物語によると次のとおりである。
お七は駒込追分片町に住む、八百屋太郎兵衛の娘という。(一説では加賀前田家の家臣中村喜兵衛で退身して町人になった人物) 元和2年 (一六八二) 12月28日、近くの大円寺の塔頭の大竜庵から出火した。これが天和の大火で、火は隅田川を越え深川まで延焼した。火の勢いが強く、芭蕉庵の芭蕉は思わず、生け簀に飛び込み、難を逃れたという。
この大火で、お七の家も焼け、家族三人、菩提寺の円乗寺に避難した。その難中に円乗寺に仮寓していた小姓小堀左門と恋仲なる。(一説では、佐兵衛、吉三、葺二郎などがある) 左門は頭脳明晰のうえ、目を見張る美男子であった。
やがて家は再建されたが、左門と会いたい一心で、自宅に火をつけた。幸い、大火に至らなかったが、お七は放火の大罪で捕らえられた。そして天和3年(一六八三)3月28日、千住小塚原で(一説では鈴ケ原)で火あぶりの刑に処せられた。数え16歳であった。
炎々と燃えさかる火の中で黒こげとなって焼死したお七の遺体は、見せしめのために、三日三晩さらされていたという。
この悲恋のお七事件は、江戸の人々に新鮮な驚きを与えた。
井原西鶴は、このお七事件を『好色五人女』 に著した。要約してみると次のようになる。(文京区史跡さんぽ実施報告書より)
- 本郷通りの八百屋八兵衛の娘お七はまれにみる美人で16歳であった。
- お七は大火で菩提寺の吉祥寺へ避難し、寺小姓の吉三郎と出会った。
- 恋のきっかけは、お七の母親が吉三郎の人指し指にささったトゲを、銀の毛抜きで抜いてやろうとしたが、老眼で、お七を呼んで抜かせた。そのお礼に吉三郎が、お七の手をにぎった。
- お七が吉三郎の素姓を調べると、由緒正しい浪人の子で、心やさしい人物だとわかった。
- 二人は寺で会う機会をつくり、まわりの人々もそれに力を貸し、二人は逢う瀬を楽しんだ。
- 家が完成したのでお七の母親は、吉祥寺を引き払い、お七を親の厳しい監視のもとにおいた。
- 吉三郎は、板橋の黒子に姿をかえ、八兵衛の家を訪れた。お七は黒子を吉三郎と知り、無言で盃をかわした。
- ある風の強い日、吉祥寺に逃げたことを思い出し、大火になれば吉祥寺に避難できると思い、出来心から放火した。
- お七は覚悟の上なので、捕らわれる前と同じ美しい姿で、死出の旅についた。
円乗寺所蔵の文化財
- 八百屋お七の墓
八百屋お七の墓
お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれていて異説が多い。
お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年(1682)12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家に戻ったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789-1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。(文京区教育委員会掲示より)
円乗寺の周辺図
参考資料
- 「小石川區史」
- 東京名所図会