嶺松山昌清寺|徳川忠長の乳母お清の方開基
昌清寺の概要
浄土宗寺院の昌清寺は、嶺松山弘願院と号します。昌清寺は、元和元年(1615)に徳川忠長(家光の弟)の母お江が、自害した忠長の菩提を弔うため、忠長の乳母お清の方(昌清院電心譽妙安大姉)を開基として、天蓮社龍譽上人冷吟和尚(寛永14年寂)を開山に迎えて創建したといいます。
山号 | 嶺松山 |
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院号 | 弘願院 |
寺号 | 昌清寺 |
住所 | 文京区本郷1-8-3 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
昌清寺の縁起
昌清寺は、元和元年(1615)に徳川忠長(家光の弟)の母お江が、自害した忠長の菩提を弔うため、忠長の乳母お清の方(昌清院電心譽妙安大姉)を開基として、天蓮社龍譽上人冷吟和尚(寛永14年寂)を開山に迎えて創建したといいます。
文京区教育委員会掲示による昌清寺の縁起
当寺は浄土宗嶺松山弘願院昌清寺と称され、元和元年(1615)の創建である。
開祖は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母である。父二代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。しかし兄家光の乳母春日局が家康に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿河城主となったが、なお大坂城主を要請したため家光の怒りにふれ、領地は没収され、高崎城に幽閉され自害した。寛永十年(1633)忠長28歳であった。
忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせた。(文京区教育委員会掲示より)
「本郷區史」による昌清寺の縁起
昌清寺
元町二丁目に在り、智恩院末、嶺松山弘願院と稱す。駿河大納言忠長の菩提を弔ふ爲め忠長夫人松孝院が忠長の乳母昌清尼(朝倉氏名は清)を開基として創建せしめたる所で、僧靈吟(寛永十四年寂)を開山とする。(「本郷區史」より)
東京名所図会による昌清寺の縁起
昌清寺
元町二丁目十五番地にあり、嶺松山弘願院と號す、浄土宗京都智恩院の末派なり、元和元年創建す、本尊阿弥陀如来は駿河大納言忠長の護念佛なりといふ。
新編江戸志(三)に云、開山天蓮社龍譽上人冷吟和尚、寛永十四年三月七日に寂す、寺傳云、本尊阿弥陀聖徳太子作終りの尊像、御細工道具尊像の胎中にあり、當寺御入國前にわつかの草庵あり、或時武者一人俵の中へ尊像を入、持来りて草庵に預ける、其後年経ても彼武士来る事なし、依之當寺の本尊とす、はるかに年月を経て駿河亞相公御菩提の為に終に一宇を造立す、則當寺なり、かの人の法名に昌清院電心譽妙安大姉といふ、依之後に昌清寺と名づくとあり。(東京名所図会より)
昌清寺の周辺図
参考資料
- 「本郷區史」
- 東京名所図会