見海山江岸寺|鳥居忠政開基
江岸寺の概要
曹洞宗寺院の江岸寺は、見海山と号します。江岸寺は、駒込高林寺二世白洲哉和尚(寛永11年1634年寂)が開山、鳥居忠政が開基となり、慶長元年(1596)お茶の水付近に創建、明暦の大火の後当地へ移転したといいます。
山号 | 見海山 |
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院号 | - |
寺号 | 江岸寺 |
住所 | 文京区本駒込2-26-15 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
江岸寺の縁起
江岸寺は、駒込高林寺二世白洲金龍和尚(寛永11年1634年寂)が開山、鳥居忠政が開基となり、慶長元年(1596)お茶の水付近に創建、明暦の大火の後当地へ移転したといいます。
「本郷區史」による江岸寺の縁起
駒込富士前町に在り、高林寺末、見海山と號す、本寺と同じく慶安元年神田駿河臺に起立、同九年お茶の水に移り明暦大火後現地に轉じた。開山は本寺二世白洲金龍(寛永十一年寂)墓地に原雲澤(醫師名は尚賢字は子才一號は湖南畫を能くす、安政三年歿)の墓がある。(「本郷區史」より)
東京名所図会による江岸寺の縁起
江岸寺
駒込富士前町三十六番地にあり、曹洞宗駒込高林寺末なり、鳥居忠政の開基にして、僧全龍を開山とす、慶長元年神田御茶の水邊に創建し、明暦の火後此地に移る。(東京名所図会より)
文京区教育委員会による江岸寺の縁起
曹洞宗江岸寺の開基は鳥居忠政である。以後当寺は鳥居家の江戸の菩提寺となった。忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、一方ヶ原の戦、長篠の合戦等で、家康に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は、下総矢作(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関が原の戦では家康から伏見城の留守番を命じられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田光成等の総攻撃を受けた。これが関が原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力尽き、城も落ちた。
その子忠政は大阪の陣では、江戸城の留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英の時、下野国壬生4万石に移封された。
鳥居氏の子孫、鳥居忱は壬生藩の江戸の大名屋敷に生まれた。壬生藩の貢進生(藩の奨学生)として大学南校(東大の前身)に学んだ。卒業後、音楽取調掛(東京音楽学校の前身)伝習生として、アメリカ人の教師メーソンに洋楽を学んだ。
東京音楽学校教授を勤めるかたわら、多くの作詞を手掛けた。中でも「箱根八里」は滝廉太郎の作曲で、多くの人々に愛唱されている。鳥居忱はここに眠っている。(文京区教育委員会)
江岸寺の周辺図
参考資料
- 「本郷區史」
- 東京名所図会