既成山願行寺|文京区向丘にある浄土宗寺院
願行寺の概要
浄土宗寺院の願行寺は、既成山光明院と号します。願行寺は、品川願行寺開山観誉祐宗上人の孫弟子諦誉東胤(慶長15年寂)が文禄年間に創建したといいます。慶長12年馬喰町へ移転、明暦大火の後当地へ移転しました。江戸期には真行院、見光院、浄入院、勤修院、周楽院、顕性院、諦笈院、蓮乗院、真樹院の塔頭9ヶ院を擁していました。
山号 | 既成山 |
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院号 | 光明院 |
寺号 | 願行寺 |
住所 | 文京区向丘2-1-5 |
本尊 | 木造阿弥陀如来坐像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
願行寺の縁起
願行寺は、品川願行寺開山観誉祐宗上人の孫弟子諦誉東胤(慶長15年寂)が文禄年間に創建したといいます。慶長12年馬喰町へ移転、明暦大火の後当地へ移転しました。江戸期には真行院、見光院、浄入院、勤修院、周楽院、顕性院、諦笈院、蓮乗院、真樹院の塔頭9ヶ院を擁していました。
「本郷區史」による願行寺の縁起
駒込追分に在り、智恩院末、既成山光明院と號す、開山諦譽東胤(慶長十五年寂)文禄中江戸内屋敷に創立、慶長十二年馬喰町へ移轉、天和大火後現地に移る。良辨僧正作と稱する不動像あり。松山天姥(名は敬和、字は伯義源蔵と稱す江戸の書家なり、天明三年歿五十八)笠原大梁(天姥門下の書家、名は信字は士信源三郎と稱す、文化八年歿三十九)三宅良斎(儒者、名は温字は子厚明治元年歿五十二)細木香以(幕末の通人山城河岸の津藤と稱す明治三年歿四十九)の墓がある。(「本郷區史」より)
東京名所図会による願行寺の縁起
願行寺
(本郷)追分町三十三番地にあり、既成山光明院と號す、浄土宗智恩院末なり、文禄年間の創建に係る、其後慶長十二年馬喰町に移す、元和二年此地に移る。
江戸砂子(三)に云、開山真蓮社諦譽上人東流和尚、江戸品川の人、慶長十五年十二月二十六日寂、當寺は品川願行寺と一寺也、此上人住職の時、両寺となりて馬喰町の上寺町にうつる、元和年間囘録の後此地に移るとなり。品川願行寺と山號ともにおなじ。
不動尊。大山同木同作の像なり。
塔頭。周楽院、勤修院、浄入院、真樹院、顯性院、真行院、恩光院、諦及院
大山同木同作といへば、良瓣僧正の作なるべく、明治後塔頭廃せられ、真行、浄入の両院、各一箇寺院となり、其他の六院跡を絶ちぬ。(東京名所図会より)
御府内寺社備考による願行寺の縁起
京都知恩院末 駒込追分
既成山光明院願行寺、境内拝領地1300坪
当寺起立去文禄年中江戸由屋浦ニテ境内拝領、開山真蓮社諦誉東胤品川願行寺開山観誉祐宗上人ノ孫弟子也。姓不知生所武州品川尤開山諦誉品川住職ノ砌、御城而被為召上ニ付、遠方ニ而不便利ノ由蒙、上意御城近ニ地所拝領○○ニ付品川願行寺ノ後諸国達ニ附属仕諦誉拝領ノ地所ニ新ニ山院号同号ニ仕一寺造立仕候、則当寺ヲ起立シ古来ヨリ云伝ニ御座候。
慶長12年内屋○馬喰町ニ智地2058坪拝領。明暦3年類焼而当758坪被召上、天和2年12月28日類焼仕同所当駒込ニ被智所、○付ふ300坪拝領仕候。(御府内寺社備考より)
願行寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来坐像一軀(文京区指定文化財)
木造阿弥陀如来坐像一軀
伝来は明らかでないが、天和3年(1683)この地に移ってきた願行寺に、古くから伝わる仏像である。ヒノキ材の割り矧ぎ造り、表面に漆箔を施す。像高34.2cm。
平安時代後期に盛んに制作された定朝様式の仏像で、12世紀の頃、当時の中央の仏師によって制作されたものと思われる。
やさしく穏やかな表情の丸顔で、像全体にゆったりした気がただよっている。小像であるが、手の込んだ巧みな技法によって、定朝様の特色と美的感覚をよく示している。
文京区内に残る平安時代の仏像として貴重である。(文京区教育委員会掲示より)
願行寺の周辺図
参考資料
- 「本郷區史」
- 東京名所図会
- 御府内寺社備考