本覚山妙勝寺|鎌倉時代末期創建
妙勝寺の概要
日蓮宗寺院の妙勝寺は、本覚山成就院と号し、徳治2年(1307)に日尚上人が開山しました。もと中山法華経寺の末で、末寺14ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院です。
山号 | 本覚山 |
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院号 | 成就院 |
寺号 | 妙勝寺 |
住所 | 江戸川区江戸川6-7-15 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙勝寺の縁起
妙勝寺は、日尚上人が開山となり徳治2年(1307)に創建したといいます。
江戸川区教育委員会掲示による妙勝寺の縁起
弘安7年4月(1284)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺2世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立した。即ち開山の日尚上人で時は徳治2年(1307)春3月のことであった。中山法華経寺の末寺・葛西の融水頭であり、中本寺として14ヶ寺の末寺をかかえていたという記録がある。
安置する宗祖大士像は中山法華経寺3世日佑上人がある夜、宗祖聖人が微妙な音声で読経している夢を見て、自ら夢中感得のお姿を彫って開眼供養をして日尚上人に与えられたものである。安政地震で倒壊したが、かつては水神宮があり、現在開山堂に祀られているが、この本尊は日尚上人が難船で漂流している時、深く水神に祈誓して波浪の難をのがれたので報恩の為、彫刻して日高上人に点眼を乞い、以後は一乗の法味をささげたものとされている。
地元の有力な檀信徒の外護も代々続き、大木に囲まれた中にある。大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号、成就院がなまった”ジョウヂン”の呼名で親しまれている有数の名寺である。(江戸川区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による妙勝寺の縁起
(二之江村附持添新田)妙勝寺
法華宗、下総国葛飾郡中山法華経寺末。本覚山成就院と号す。本尊十界勧請祖師を安す。正応5年の草創にて開山日尚、暦応元年2月2日遷化。当寺の傳へに弘安7年4月下総国堀江浦に流着せし虚船ありて、其中に一童子をれり。当村の漁人とりあげて介抱し其由を問へば、平家の末葉なりと云。よりて伴ひ帰りて元よりありし妙見社の傍に草庵を営み置しが、其後法華経寺二世日高、宗泒弘通のため当所に来りしとき、彼童子16にて日高の弟子となり、成就院日尚と号し、後に当寺を創すと云。
寺寶。日蓮書像一幅、水戸黄門光圀卿の筆なりと云。
水神社。鬼子母神社。三十番神社。妙見堂。
鐘楼。元文4年10月造立の鐘をかく。
塔頭。光明坊、蓮性坊。(新編武蔵風土記稿より)
妙勝寺にある江戸川区登録文化財
- 紙本墨書大曼荼羅(江戸川区登録文化財)
紙本墨書大曼荼羅
天保14年(1843)32世日信の代に、小島(現西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺101世日道(-1850)に依頼し、2幅とも日高、日祐上人の真筆であると認めた証文が残っています。(江戸川区教育委員会掲示より)
妙勝寺の周辺図