般若院。河村城主の河村筑後守秀高創建
般若院の概要
真言宗東寺派寺院の般若院は、室生山智積寺と号します。般若院は、波多野遠義の二男で河村城主の河村筑後守秀高が菩提寺として承安2年(1172)年小名湯坂に創建、文明年間(1469-1487)に当地北側に移転し、日圓(文明18年1486年寂)が中興開山したといいます。武田信玄の小田原攻めや、上杉謙信の小田原攻めにより寺地荒廃、天正8年(1580)に室生神社を中川村から後方の丸山山上に遷座させ、山号を惠華山から室生山と改めています。江戸時代初期には3度の火災に遭い、万治元年(1658)当地(華蔵院屋鋪)へ移転し諸仏具・堂塔を整備したといいます。
山号 | 室生山 |
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院号 | 般若院 |
寺号 | 智積寺 |
住所 | 足柄上郡山北町岸1641 |
宗派 | 真言宗東寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
般若院の縁起
般若院は、波多野遠義の二男で河村城主の河村筑後守秀高(平安時代末期の武将)が菩提寺として承安2年(1172)年小名湯坂に創建、文明年間(1469-1487)に当地北側に移転し、日圓(文明18年1486年寂)が中興開山したといいます。武田信玄の小田原攻めや、上杉謙信の小田原攻めにより寺地荒廃、天正8年(1580)に室生神社を中川村から後方の丸山山上に遷座させ、山号を惠華山から室生山と改めています。江戸時代初期には3度の火災に遭い、万治元年(1658)当地(華蔵院屋鋪)へ移転し諸仏具・堂塔を整備したといいます。
境内掲示による般若院の縁起
河村氏の菩提寺「般若院」
当寺は河村氏初代、河村山城守秀高(波多野遠義の二男)以来の菩提寺である。本尊に文殊菩薩を安置し、古くは恵華山と号した。
河村城の大手、湯坂の地にあったが文明年間、中興開山日円が現在地の北側に移転した。
天正八年(一五八〇)室生明神社を後方の丸山山上に勧請したので室生山智積寺般若院と号し、古義真言宗の名刹である。戦国時代、甲斐、越後の軍が乱入し、兵火で炎上、江戸時代にも災火にあって万治元年(一六五八)現在地に移転した。境内閑寂、泉声渾々として脱俗の浄域である。後の丘に父の追福の為に河村権七が建てた累代の事蹟を刻んだ河村勝興の碑がある。寺宝として勝興の烏帽子型兜、法華経、河村城古図等がある。外に奥州河村氏に伝わる秘伝河村城籠城戦記「梅風記」の写し、幕府大目付河村大和守一匡の記録等がある。(山北町教育委員会掲示より)
「山北町史通史編」による般若院の縁起
般若院の縁起
般若院の縁起は、「室生山智積寺般若院従来之記」といい、山北町域に現存する最も詳しい寺社縁起であり、天和三年(一六八三)に書かれた。内容は室生大明神の縁起からはじまり、江戸初期の三回の火災、中興開山日圓からの住職の事績を十一世伝栄がまとめたものである。また『新編相模国風土記稿』にも記述がある。これらによると、室生山智積寺般若院は古義真言宗で、足柄上郡金子村の最明寺の末寺である。山号はもとは恵華山といい、その後室生山と変わるが、それは川村の総鎮守である室生明神の名に由来する。境内七石六斗五升(七反六畝一五歩)が除地となっている。
中興開山は日圓(文明十八年〈一四八六〉八月没)で、開基は河村城主の川村秀高と伝え、本尊は文殊菩薩である。当寺の由来たる室生大明神は、もとは大和国室生山の眷属であったが、般若院の了智和尚が勧請したとも伝え、はじめは中川村にあったが、天正八年(一五八〇)に当院の後山に移し、その佐川村山北に移したという。
般若院の縁起には、かつては河村城主の河村筑後守秀高護持のときに伽藍を建立したと伝えられるが、「甲斐・越後佐之乱入、数度放火焼失仕り、故にその詳しきを伝えず」と、敵国からの侵攻によりいよいよ衰退したとある。なお『新編相模国風土記稿』には、法印日圓(文明十八年没)が中興開山で、当寺は古くは小名湯坂のあたりにあったが、のちに今の地に移したとあり、また、正保四年(一六四七)の寺記には、松田尾張守憲政(小田原北条氏の重臣)が当地を拝領したころ、当寺を祈願所として寺領五貫文を寄進したという記述もあるとしている。
さらに縁起によれば、江戸初期の元和六年(一六二〇)四月、寛永十一年(一六三四)五月、寛永十八年五月に三度もの火災にあい、境内の本堂をはじめほかの諸建物、什物等をことごとく焼失し、一時は無住の時期もあったほど衰退したという。
縁起にはつづけてその後、歴代の住職の間に、慶安三年(一六五〇)には山林に杉を植え、万治元年(一六五八)には仏閣を造立、寛文七年(一六六七)には本尊も建立し、また仏具等も整え、延宝六年(一六七八)には釣鐘も鋳造したとある。こうしてその後も寺門、諸仏像等が整えられたという。(「山北町史通史編」より)
新編相模国風土記稿による般若院の縁起
(川村岸)
般若院
室生山(往古は惠華山と號せり、是文殊を安ずるが故なる由、縁起に見ゆ、又村民所蔵の古圖には、字一山と記せり、中頃はしか唱へしなり、今の山號に改しは、天正八年にて、是は中川村の室生明神社を當院の後山に移せしより、名づくと云へり、後明神社は、川村山北に移せり、今既に彼地にあり、)智積寺と號す古義眞言宗(金子村最明寺末、)開基は河村山城守秀高と云、(縁起に見ゆ、往古川村郷の領主たり、)當院は小名湯坂の邊にあり、後今の地に移せり、(村民所蔵の古圖に載する所、彼村の條に縮圖あり、併せ見るべし、)中興開山日圓、(文明十八年八月五日寂す、)中古松田尾張守憲秀郷中を領せし頃、當院を祈願所とし、寺領五貫文を寄附す、
(正保四年の寺記曰、松田尾張守川村中を拝領被成、岸村御屋形を被構、般若院を祈願所に被仰付、五貫文の寺領を被下、御手形を給り候處、五十ヶ年前焼失、)
文殊を本尊とし、愛染(長九寸弘法作)を置、墓所の前小畑の所、華蔵院屋鋪と唱ふ、是川村向原華蔵院の舊地なり、
【寺寶】
△冑一刎。兜盔にして、錣は紅白萌黄の糸もて絨せり、鉢錣共金箔を押す、
△法華經一部。共に川村一吉、天和中、父勝興が追福の爲、寄附する所なり、
△稲荷社
△鐘樓。延寶六年鑄造の鐘を掛、
△川村彌左衛門勝興墓碑。後丘にあり、碑隠に川村氏累代の姓名小傳を刻す、勝興が男、權七一吉父が追福の爲、天和元年祖先の舊邑なるを以、當寺に碑を建と云、勝興は加藤佐馬助嘉明、其子式部少輔明成に仕へ、大猷院殿御上洛の時、拝謁し奉れり、一吉は清揚院殿に仕へ續て文昭院殿潜邸の頃、奉仕せし人なり、(以上碑陰の銘所載、)(新編相模国風土記稿より)
般若院所蔵の文化財
- 山北町岸のヒキガエル集合地(神奈川県指定天然記念物)
山北町岸のヒキガエル集合地
ニホンヒキガエルは動物学上、学術研究上また日本の理科教育上貴重な生物である。この地区はヒキガエルが多産し、新編相模国風土記稿にも、この地区の「蛙合戦」が載っていて、歴史的にも、非常に古くから現在まで繁殖地としての蛙合戦が続いている。毎年三月上旬から下旬にかけて多数のヒキガエルが池に集まり産卵をする。やがて卵より成育したヒキガエルは六月頃に山に帰っていく。
これは昔より今日にいたるまで年々繰り返されていることで、いつまでも蛙合戦が続いていくように保護するため、ここに天然記念物に指定した。(神奈川県教育委員会・山北町教育委員会掲示より)
般若院の周辺図
参考資料
- 「山北町史通史編」
- 新編相模国風土記稿