猫の足あとによる厚木市・神奈川県・首都圏の寺院、神社など寺社案内

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

厚木神社。厚木市厚木町の神社、旧郷社

厚木神社の概要

厚木神社は、厚木市厚木町にある神社です。厚木神社は、円融天皇(969~984)の御宇に、藤原伊伊公が牛頭天王を勧請したと伝えられ、鎌倉時代には那須与一が眼病平癒祈願をした伝説が残されています。中世には当地周辺に市が建つようになり、村の鎮守社として崇敬され、江戸期には元和4年(1618)再建、鳥山藩の陣屋も北隣に置かれていたといいます。明治初年厚木神社と改称、明治6年に船喜多神社と熊野神社を合祀、明治40年には郷社に列格しています。

厚木神社
厚木神社の概要
社号 厚木神社
祭神 建速須佐之男命、五十猛命、奇稲田比売命、子母津事解男命、伊邪那美命、速玉之男命、大名牟遅命
相殿 -
境内社 厚木稲荷神社、水神宮
祭日 例大祭7月第二又は第三の土日
住所 厚木市厚木町3-8
備考 -



厚木神社の由緒

厚木神社は、円融天皇(969~984)の御宇に、藤原伊伊公が牛頭天王を勧請したと伝えられ、鎌倉時代には那須与一が眼病平癒祈願をした伝説が残されています。中世には当地周辺に市が建つようになり、村の鎮守社として崇敬され、江戸期には元和4年(1618)再建、鳥山藩の陣屋も北隣に置かれていたといいます。明治初年厚木神社と改称、明治6年に船喜多神社と熊野神社を合祀、明治40年には郷社に列格しています。

新編相模国風土記稿による厚木神社の由緒

(厚木村)
牛頭天王社
神躰石一顆を置、本地佛薬師別當寺に安ず、是も鎮守とす、例祭六月六日、元和四年再建の棟札を蔵す、知音寺持、
末社。稲荷、八幡、道了権現、秋葉、天神、淡島、淺間
鍾樓。元文元年再鑄の鐘を懸、(新編相模国風土記稿より)

神奈川県神社誌による厚木神社の由緒

円融天皇の御宇(九七三~九七五)年間藤原伊尹公勧請と伝え、最初勧請の地は郷内字田村堀にあったが、其地水損地になったので、承徳年中現今の地に移建した。該社移建の後社跡を水田に開き田中に一石の祠を設立し、今尚之を存置している。仍て其辺の字を天王縄と云い、其後下野国十人那須与一宗高なる者本地薬師仏を安置し、又別当寺を造立する由宗高の事旧別当境内墓碑五墓を存す。正徳四年(一七一四)夏六月正祭の日例により相模川に於て神体を洗滌する時、社使過って神体を水底に失う。翌年五月に至り当町住人告原伊兵衛なる者霊夢により神体を得所持する木臼の上に麥稈を敷き、神座を設け神輿の休憩を請う例なり、右古久しく該家に伝うと雖も慶応三年(一八六七)十一月急火に罹り焼失す前顯の事由証跡を存するものありと雖も古誌を伝ず、唯旧別当及氏子衆庶の口授に拠る者なり中古旧藩主等崇敬の社とす。明治元年牛頭天王の仏名を廃し、厚木神社と改称す。明治六年五月旧足柄県庁に於て更に郷社に列格せらる。明治四十年四月三十日神饌幣帛料共進すべき神社に指定せらる。大正十年予算四万円を以て社殿建築に着手、本殿及拝殿の竣成近づくに際し、大正十二年九月一日大震火災によって焼失す。次いで大正十五年三月再建に着手し現在に至る。工費金四万九千円也。昭和九年当町宮大工河内福賢により神輿造営、工費三千七百円也。昭和十二年工費二千三百円にて神輿奉安庫並に参道を造営す。(神奈川県神社誌より)

「厚木市史史料」による厚木神社の由緒

厚木神社(厚木町三の八)
明治初年以前には午頭天王社と呼ばれており、神躰は石である。現在の例祭は七月十四日(宵宮)より十六日までであるが、明治初年以前には六月六日(旧暦)より七日間も続いて行なわれたという。氏子は、旧厚木町地区全区である。
当社は天延年間(九七三-)の創建と伝えられ、創建は西方、字天王免(明治九年地租改正の時、字大井と改め、その後耕地整理の時に字恩名境となる)に勧請されたという。現在の栄町二丁目の国道二四六号線沿の旧地と伝えられる場所に、明治四十四年再建の石祠がまつられている。
さて当社が現在地に移されたのは何時であろうか、明確な記録は現在発見されていないが、元和四年(一六一八)再建の棟札が所蔵されていたことが記録にあるので、それ以前にさかのぼるのではなかろうか。当社附近が、中世末期、「市」として確立された頃に、水災からのがれることをも兼ねて神社を杷ったのではないだろうか。
昔の祭礼の行事は、京都の祇園祭に型どって、町の中央の堀の両端には傘鉾三十数本を立て連らね、町内毎に大臓を建てた。正午を期して神輿が神社よりかつぎ出される。先頭には雌雄の獅子頭、続いて裃をつけた世話人数名、神輿は白の装束のかづきの人々によってかつぎ出されると、鳥山藩厚木役所(旧厚木市役所本庁舎の場所=神社の北隣)の前を通り、相模川に入って水中渡御の行事を行ない、それから各町内をねり歩いた。年番の町内では山車を出して、祭り囃子もにぎやかに近郷の人出数万を数えたという。
正徳六年(一七一六)の例祭の時、古式の通り相模川で浜垢離を行なっている時、神躰を流失してしまった。翌年の五月下旬のこと、厚木村の旧家告原伊兵衛が、霊夢によって神躰の所在を知り、水中を探り持ち帰り、不浄を恐れて臼の上に麦藁を敷いて奉安した。この例によって、例祭の時伊兵衛方ではこの古臼に新しい麦藁を敷いて神輿の休憩を請うた。慶応三年の火災でこの臼も焼失したので以後はこの例が絶えたと伝えている。(「厚木市史史料」より)

境内掲示による厚木神社の由緒

円融天皇(969~984)の時代、藤原伊伊公より勧請されたと伝えられたと言われております。鎌倉時代には那須与一が眼病平癒祈願をした伝説や、江戸烏山藩の陣屋が設けられた事等から厚木草創期より郷民の安寧と、政治経済の中心として尊敬されていた事が伺えます。
厚木神社の尊称は明治維新以後の名称であり、それ以前は牛頭天王と称し今でも一般にはお天王様と言われ、例祭には参詣の人々で大いに賑わいます。
明治6年に船喜多神社と熊野神社を合祀し、明治40年には神奈川県より郷社に列格されました。(境内掲示より)


境内社厚木稲荷神社について

厚木稲荷神社は、知音寺住職法印高観(安永年代寂)が京都伏見稲荷神社を勧請したといいます。

厚木稲荷神社の由来
厚木稲荷神社は安永六年(西暦一七七六年)牛頭天王社の別当智恩寺住持法印高観(安永年代寂)が京都伏見稲荷社の分社をここに勧請したことにはじまるという。
以後この地が天王町と呼ばれるようになると天王町の有志が「稲荷講中」を結成して祭祀をするようになり毎年二月の初午祭りが盛大に挙行されて来た。云々(境内掲示より)

厚木神社の周辺図


参考資料
  • 新編相模国風土記稿
  • 神奈川県神社誌
  • 「厚木市史史料」