厚木熊野神社。相模国愛甲庄が熊野山領だった鎌倉期創建
厚木熊野神社の概要
厚木熊野神社は、厚木市旭町にある神社です。厚木熊野神社の創建年代等は不詳ながら、寛元元年(1243)に相模国愛甲庄が熊野山領となっていたことから、熊野社が勧請されたのではないかといい、往古は村の総鎮守だったといいます。江戸期には船喜田神社、厚木神社(牛頭天王社)と共に村の鎮守となっていましたが、明治6年厚木神社に合祀されて廃社となったものの、明治中期に疫病が流行した際に再奉祀したといいます。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 厚木市旭町3-14-3 |
備考 | - |
厚木熊野神社の由緒
厚木熊野神社の創建年代等は不詳ながら、寛元元年(1243)に相模国愛甲庄が熊野山領となっていたことから、熊野社が勧請されたのではないかといい、往古は村の総鎮守だったといいます。江戸期には船喜田神社、厚木神社(牛頭天王社)と共に村の鎮守となっていましたが、明治6年厚木神社に合祀されて廃社となったものの、明治中期に疫病が流行した際に再奉祀したといいます。
新編相模国風土記稿による厚木熊野神社の由緒
(厚木村)熊野三社
例祭九月九日、三井長吏大僧正行尊の勧請なりと云、古は村の惣鎮守なりと傳ふ、
末社。稲荷(古は本社より三町を隔、相模川の邊にあり、然るに川瀬變遷して社地に迫りしかば元和中爰に移せりと云、)
鍾樓。天明二年再度鑄の鐘を懸、
親睦。銀杏圍二丈、
別當熊野堂。或は熊野寺と稱す、長授山厚樹院と號す、本山修験京都聖護院末、正年行事職を奉る、古は先達職たりしに永禄八年本山の許を得て、東光坊其職を襲げり(所蔵文書曰、相州厚木熊野堂跡職之事、爲由緒東光坊捧京都之證文、被致懇望候仍如件、永禄八年乙丑六月二十一日、□□花押、)大僧正行尊の開基にして、怏山(嘉禄元年十二月五日卒、)中興す、文明十八年聖護院道興准后囘國の時、當寺に立寄あり、(【回國雑記】曰、熊野堂と云所へ行ける道に小野といへる里侍り、按ずるに郡中小野村あり、)其後退轉に及しを、大永五年快祐と云僧(大永六年七月十五日卒)、再び中興す(所蔵文書曰、相模國熊野堂先達近年退轉之上者、彼跡門徒幷諸國旦那等事、被仰付山崎薩摩快祐之旨、各可有存知之由乗々院僧正御房被仰出候也、仍執達如件、大永五四月二日、當國諸山伏中、秀榮快延各花押)、本尊不動長一尺五寸行基作、往古は本社の東相模川に添て寺地ありしが、元和七年河中に沒せしより今の地に(本社の北一町半餘を隔)移ると云、
【寺寶】
瀧見観音畫像一幅、牧渓筆、
不動像一軀長五寸覚鑁作
独鈷一箇、浄蔵貴所持の物と云、木製なり、
古文書二通、既に前に註記す、(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による厚木熊野神社の由緒
非法人のため掲載なし(神奈川県神社誌より)
「厚木市史史料」による厚木熊野神社の由緒
熊野神社(旭町二丁目十四の三)
古くは村の惣鎮守と伝え、熊野三社ととなえていた。別当として熊野堂があり、熊野堂の創建は中世初期以前までさかのぼるものと思われる。
寛元元年(一二四三)、相模国愛甲庄は、熊野山領となっていたことからしても、当地方に熊野信仰が存在したことは想像にかたくない。
神社境内は、熊野森と呼ばれ、大木うっそうたる森であったが大正末年に神木の銀杏を一本残して全く伐採されてしまった。熊野森は、江戸末期渡辺崋山来厚の時描いた「厚木六勝」の一つとして描かれている。
明治初年、神仏分離により熊野堂は廃され、更に熊野社も明治六年に厚木神社に合祀された。
しかし、明治中期に疫病が流行した時、旧氏子たちが再び現在地に勧請した。例祭は、九月九日であり、旭町住民七十五戸程が氏子となっている。神体は鏡である。(「厚木市史史料」より)
厚木熊野神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 神奈川県神社誌
- 「厚木市史史料」