妙栄山本盛寺。日澄聖人開山、文明元年当地に移転
本盛寺の概要
日蓮宗寺院の本盛寺は、妙栄山と号します。本盛寺は、九老僧の一人日澄聖人を御開山として厚木市金田に大蓮寺と号して正和3年(1312)に草創、星降り御霊梅の年次輪番を務めていたといいます。応仁2年(1468)相模川洪水により罹災、翌年に第4世信敬院日高聖人が当地に移転、本盛寺と改号、享保8年(1723)には本堂・客殿・庫裡に加え、鐘楼堂、焔魔堂など七堂伽藍を完備していたといいます。
山号 | 妙栄山 |
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院号 | - |
寺号 | 本盛寺 |
本尊 | 正観音像 |
住所 | 厚木市船子1227 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本盛寺の縁起
本盛寺は、九老僧の一人日澄聖人を御開山として厚木市金田に大蓮寺と号して正和3年(1312)に草創、星降り御霊梅の年次輪番を務めていたといいます。応仁2年(1468)相模川洪水により罹災、翌年に第4世信敬院日高聖人が当地に移転、本盛寺と改号、享保8年(1723)には本堂・客殿・庫裡に加え、鐘楼堂、焔魔堂など七堂伽藍を完備していたといいます。
境内石碑による本盛寺の縁起
夫れ当山は今を去る六百六十六年の昔、正和三年九老僧日澄聖人を御開山として草創され、現在の厚木市金田にあって大蓮寺と号し、妙純寺相伝寺梅香寺妙典寺法泉寺の六ヶ寺にて、星降り御霊梅の年次輪番守塔をなす。
爾来法燈百五十五年 応仁二年戊子歳相模川大洪水の厄に遭い翌文明元年春第四世信敬院日高聖人、山水紫明の此の地を相し大蓮寺を引て始め善正寺と号し、後ち本盛寺と改号する。
更に下って二百五十五年後享保八年には六間半の本堂、五間四面の客殿、七間の庫裡、鐘楼堂、閻魔堂等諸堂完備す。蓋し当山が最も輪奐の美を極めたる時代とも請うべく、此れら諸堂の点在するを瞑想するとき寺域寺領の宏大なるを推して知るべきものがある。
然し盛衰成敗栄枯隆滅は世の慣い、当山もまた此の理を免れず、時に十九世智観院日正聖人の如き、南谷檀林百二十四代玄講の学僧無きにしもあらずといえども法燈明滅し、明治に入って無住若しくは転住相継ぎ寺観荒廃の一途を見るにいたる。・・・(境内石碑より)
新編相模国風土記稿による本盛寺の縁起
(船子村)
本盛寺
妙榮山と號す、法華宗(鎌倉比企谷妙本寺末、)本尊三寶祖師、開山日隆(圓教院と號す康永二年三月卒、)中興日高(信教院と號す應永二年卒)(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による本盛寺の縁起
妙栄山本盛寺(船子1227)
正和三年(一三一四年)日蓮大聖人法孫大乗阿闇梨日澄土人により開基され古は現今の下依知にありたるも応仁の洪水に遇い現地に移る。中期享保九年には、七堂伽藍を有せしも後衰退し無住あいつぎ今日に至る。(「厚木市史史料」より)
本盛寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」