妙純寺。厚木市金田にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

明星山妙純寺。星下りの梅樹、日蓮宗由緒寺院、本間重連公屋敷跡

妙純寺の概要

日蓮宗寺院の妙純寺は、明星山と号します。妙純寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあった本間六郎左衛門尉重連の宅地に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依、日蓮上人の弟子日善が建治2年(1276)に開基したといいます(同様の伝えは妙傳寺蓮生寺にも残され、また本間重連は依智に屋鋪三ヶ所所有していたともいいます)。江戸期には慶安2年(1649)寺領2石4斗の御朱印状を受領、現在日蓮上人に所縁のある寺院として日蓮宗由緒寺院となっています。

妙純寺
妙純寺の概要
山号 明星山
院号 -
寺号 妙純寺
本尊 三宝祖師像
住所 厚木市金田295
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙純寺の縁起

妙純寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあった本間六郎左衛門尉重連の宅地に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依、日蓮上人の弟子日善が建治2年(1276)に開基したといいます(同様の伝えは妙傳寺蓮生寺にも残され、また本間重連は依智に屋鋪三ヶ所所有していたともいいます)。江戸期には慶安2年(1649)寺領2石4斗の御朱印状を受領、現在日蓮上人に所縁のある寺院として日蓮宗由緒寺院となっています。

新編相模国風土記稿による妙純寺の縁起

(金田村)妙純寺
法華宗(無本寺なり、)明星山と號し、星下の別號あり、寺傳に昔本間六郎左衛門尉重連の宅地にて(今境内に堀ノ内堀口櫻馬場等の遺名あり)文永八年九月十三日、日蓮ここに寓せしに其夜庭前の梅樹に明星下りて奇瑞を顯せし舊蹟なりと云へど、上依智村妙傳寺、下依智蓮生寺に傳ふる所と同じくして甚疑はし(事は妙傳寺の條に詳載す、)その後建治二年九月日蓮の弟子日善(大法阿闍梨と號す、建武二年二月廿三日卒、)當寺を開基す(一説に文永十一年館を捨て寺とし宗祖を開基とし日善を二祖とすと云、)中興の僧を日瑶と云(十八世貞享三年正月十五日卒、)慶安二年寺領二石四斗の御朱印を賜ふ、寛文五年住僧不受不施の邪徒に入しが、後歸順せしを以て免許ありし由【談海】と云書に見ゆ本尊三寶諸尊及日蓮(長二尺五寸、當寺三世日行作、)を置、又本間重連の像(烏帽子狩衣の像なり、長一尺五寸、法號寂照院本光惣間居士、正應元年八月六日死、上依智村妙傳寺、中依智村蓮生寺、當寺建徳寺の傳と、法名沒年月等異同あり、)を安置す、
【寺寶】
曼荼羅二幅。共に日蓮の書なり、一は一返首第の本尊と云、文永九年二月十八日、本間重連一類に授與せし物なり、一は八枚繼本尊と云、弘安二年四月八日、日蓮本間六郎左衛門重連授與と記す、
折太刀一振。日蓮瀧口の厄に用ひしものなど云り、
祖師堂。天拝の祖師と稱す(宗祖明星を拝せし時の像なれば此稱あり、長二尺一寸、日善作、)
三十番神堂
題目堂
鬼子母神社
山王社
稲荷社
鐘樓。延寶四年鑄造の鐘を掛、
梅樹一株。星下の梅と稱す(圍三尺餘)明星出現の舊跡と云、前に拝殿を設く、
仁王門
制札。惣門外に建、天正十八年豊太閤の出す所の寫と云(本書には傳へず、且當時他の寺院に出せし文と異なり、信じがたし)
子院。
了運坊、大蓮坊。此餘寶性院、本行坊、圓立坊、圓行坊と號せし四坊ありしが今廢す。(新編相模国風土記稿より)

厚木市史史料による妙純寺の縁起

明星山竜鳳寺(金田本間屋舗295)
「新編相模国風土記稿」星下の別号あり、寺伝に昔、本間六郎左衛門尉重連の宅地にて、文永八年九月十三日、日蓮ここに寓宿せしに其夜庭前の梅樹に明星下基りて奇瑞をあらわせし旧跡なりと云へど、上依知村妙伝寺、下依知村蓮生寺伝ふる所と同じくして甚疑はし、其後建治二年九月日蓮の弟子日善、当寺を開基す。中興の僧を日瑶と云、慶安二年寺領二石四斗の御朱印を賜ふ、寛文五年住僧不受不施の邪徒に入しが、後帰順せしを以て免許ありし由「談海」と云書に見ゆ。(「厚木市史史料」より)


境内掲示による妙純寺の縁起

本間重連公屋敷跡
文永八年九月十二日、片瀬竜ノ口の斬首の難を免れた日蓮聖人は翌早朝、此処本間六郎左衛門尉重連公(蓮生院殿寂照日永大居士)の館に護送されお預けの身となり、廿八日間逗留された。蓋し、明星天子、釈尊の名代として梅の木に降臨の奇瑞を現じて聖人を衛護す。翌月十月十日、鎌倉長谷光則寺の土牢に捕われの弟子日朗上人へ激励別れの手紙を送り、北海寒山佐渡ヶ島へ遠島となった。聖人五十歳なり。
平成四年四月二十八日 本山妙純寺(境内掲示より)

補足:「星下りの梅樹」が三ヶ所ある点について

当寺を含めて三ヶ寺が「星下りの梅樹」の地と伝えている点については、「本間六郎左衛門尉重連の邸宅が3ヶ所あり、3ヶ所とも日蓮宗寺院とした」と、本間家子孫に伝えられていると、新編武蔵風土記稿は記しています。

(葛飾郡彦成村)舊家者善右衛門
村の名主を勤む、本姓は本間にて今は小櫃を氏とす、相傳ふ祖先を本間孫四郎と云、其子孫六郎左衛門鎌倉将軍家に仕へ、相模國依智と云所に屋敷三ヶ所あり、僧日蓮由井濱危難の後、六郎左衛門是を護し、後彼宗門を崇信して三屋敷を捨て寺とす、足立郡島根村安穏寺開山もまた其一族なりと云、六郎左衛門が子孫六郎左衛門、慶長中に始て武州後谷村に土着し、田畑等開發し、寛永四年四月十三日死し、法名養玄と號す、養子勘解由より氏を小櫃に改む、此勘解由より三世善右衛門延寶年中當村に移る、今の善右衛門に至て五代なりと云、先祖の持し物とて槍一筋を蔵せり、(新編武蔵風土記稿より)

妙純寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」