及川山西光寺。弘法大師開基の伝承
西光寺の概要
高野山真言宗寺院の西光寺は、及川山と号します。西光寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師を開基と伝え寛文2年(1662)再建したと伝えられます。当寺の阿弥陀如来は、弘法大師作といわれ、本多七郎道本が奉安、或る時盗難にあい、不幸にして御首を失ってしまい、今に首なしの像を安置しているといいます。幕末に罹災してしまい、実相院のあった当地に移転、合併しています。
山号 | 及川山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 西光寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 厚木市及川1041 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西光寺の縁起
西光寺の創建年代等は不詳ながら、弘法大師を開基と伝え寛文2年(1662)再建したと伝えられます。当寺の阿弥陀如来は、弘法大師作といわれ、本多七郎道本が奉安、或る時盗難にあい、不幸にして御首を失ってしまい、今に首なしの像を安置しているといいます。幕末に罹災してしまい、実相院のあった当地に移転、合併しています。
新編相模国風土記稿による西光寺の縁起
(及川村)
(八幡社)別當西光寺。
及川山と號す、真言宗古義高座郡河原口村惣持院末、弘法の開基なりと云本社の棟札に載す、本尊阿彌陀木造長二尺五寸、八幡の本地佛なり(縁起の略に、正八幡幷本地如来共、弘法大師彫刻の靈軀なり、後年本多七郎道本と云者、如来を信じ發心して此堂に安居す、或時盗難有しに、如来身代りとなりて御首を失ふ、依て運慶をして御首を造らしむ、其後奇瑞ありて村内小流中より失ふ處の御首を得たり、今此御首を腹籠とす、彼小流を阿彌陀川と唱ふなどあり)脇立観音勢至(共に長二尺五寸惠心作)又不動毘沙門の像智證作と置、
---
實相院
東養山と號、同宗同末(真言宗古義高座郡河原口村惣持院末)本尊地蔵、
鍾樓。鐘は享保六年鑄造す。(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による西光寺の縁起
及川山西光寺(及川1041)
及川村八幡神社の別当寺。真言宗で弘法大師を開基と伝え寛文二年再建したと、いわれている。後年実相院と合併した。縁起によると本尊阿弥陀如来は、弘法大師の彫刻といわれているが本多氏なる者が如来を信じてこの堂に安置していたが、或る時盗難があって、如来はそれと知って身代りとなって立ち廻られたが、不幸にして御首を失ってしまったので、今に首なしの像を安置している。その後村内の小川からその失なわれた首を得たので今もその伝説からか阿弥陀川という小流がある。(愛甲郡制誌)
八幡神社の別当寺であったけれども、幕末に火災にかかって、実相院の地に移って合併し、西光寺の寺号だけ呼称した。草屋根を昭和三十五年亜鉛鉄板葺とする。尚新編相模国風土誌稿に本尊は八幡神の本地仏で脇侍仏と不動、毘沙門が置かれていたこと、本多七郎についての伝説が載せてある。(「厚木市史史料」より)
西光寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」