宝亀山西福寺。厚木市妻田東にある浄土宗寺院
西福寺の概要
浄土宗寺院の西福寺は、宝亀山往生院と号します。西福寺は、円蓮杜応誉上人超公が天正18年(1590)に開山、当地に住んでいた福山庄兵衛(法名一到安心)が文禄5年(1597)寺地を寄進して開基したといいます。
山号 | 宝亀山 |
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院号 | 往生院 |
寺号 | 西福寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 厚木市妻田東3-38-26 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西福寺の縁起
西福寺は、円蓮杜応誉上人超公が天正18年(1590)に開山、当地に住んでいた福山庄兵衛(法名一到安心)が文禄5年(1597)寺地を寄進して開基したといいます。
厚木市史史料による西福寺の縁起
宝亀山往生院西福寺(妻田1061)
宝亀山往生院西福寺といって、天正十八年に円蓮杜応誉上人超公が開山である(住職三十一年、世寿七十五才)。文禄五年福山庄兵衛がここに住んでいて、寺地は彼が寄進して開基者となった(法名一到安心)。超公はこの前には下荻野村法界寺の僧であったが、妻田字白根に浄賢寺を建てて住んでいた。また福山庄兵衛の子孫は妻田に在って連綿と続いている。
弘化年聞に書かれた寺伝によると、五代目郎誉の享保十六年十二月十六日夜焼失し、六代目壇誉が元文三年秋に再建竣工した。しかし天保三年九月十九日再び全焼(文政地誌には享保十二年秋焼失となっている)
ニ回目の火災があって、翌四年寄進を起し、弘化四年の秋に現在の堂宇が建立した。この頃の除地一反四畝〇五歩、 本尊は武州鵜木村光明寺四十九世の僧が寛政年間彫刻したが荘厳整はぬまま他界し、開眼供養なきままに脇檀にあった。それで武州滝山大善寺三十七世の計らいで、西福寺に譲らしめた(天保十一年)。
嘉永六年供養の折に増上寺大僧正が自筆の名号其の他を如来の腹中に納めた。(芝増上寺の大僧正は前の大善寺三十七世と同一人)。
西福寺では十夜行事が二日三晩も行なわれる盛況さで、昭和十三年頃までは、林人形座の上演が余興に行なわれていた。白根の浄賢寺跡には、阿弥陀庵があったけれども、明治初年に永野家の神葬墓地となった。今でも墓域内には仏式の墓石がわずかに残存している。
以上の資料は、風土記、土寸伝、本尊縁由、文政度地誌、什物帖によるものである。(「厚木市史史料」より)
新編相模国風土記稿による西福寺の縁起
(妻田村)西福寺
寶龜山往生院と號す、浄土宗芝増上寺末、本尊阿彌陀、天正十八年の創建にて開山を超公(圓蓮社應譽と號す、寛永十二年八月二十六日卒)、開基を福山庄兵衛(法名一到安心、寛永五年五月十二日死す、今子孫村民に在)、と云
庵。阿彌陀を安ず(新編相模国風土記稿より)
西福寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」