中新田諏訪神社。下中新田(中新田)の鎮守
中新田諏訪神社の概要
中新田諏訪神社は、海老名市中新田にある神社です。中新田諏訪神社は、地頭高木主水正次が当地の守護として元和6年(1620)に創建、江戸期には中新田村の鎮守として祀られていました。明治6年村社に列格、明治43年字伊勢宮下の伊勢宮大神宮、字山王原の日枝神社を合祀(いずれも戦後還座)しています。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 伊勢宮大神宮、川寿稲荷、山王日枝社・稲荷社(いずれも境外摂社・末社) |
祭日 | 7月27日 |
住所 | 海老名市中新田2-19-14 |
備考 | - |
中新田諏訪神社の由緒
中新田諏訪神社は、地頭高木主水正次が当地の守護として元和6年(1620)に創建、江戸期には中新田村の鎮守として祀られていました。明治6年村社に列格、明治43年字伊勢宮下の伊勢宮大神宮、字山王原の日枝神社を合祀(いずれも戦後還座)しています。
新編相模国風土記稿による中新田諏訪神社の由緒
(中新田村)
諏訪社
村の鎮守とす、祭祀九月二十八日、高木主水正正次が造立の棟札あり(其文に奉造立阿波諏訪大明神、當村守護所、大旦那本願、地頭高木主水正、別當東興寺、現住宗虎、元和六年とあり、)
末社。疱瘡神
鐘樓。鐘は元禄十五年地頭秋元小左衛門成朝寄進す(鐘銘、序文略曰、相模州高座郡澁谷庄中新田村、諏訪大明神者、諏訪山東興寺附庸之靈社也、曾聞昔年當國領主某公、附田畝若干、古鐘雖存年代遼邈、而瘖唖年尚焉、寺主發新成之志願、華鯨成就、奉懸寶元禄十五壬午年九月吉祥日、超外天宗大和尚代、秋元小左衛門殿)(新編相模国風土記稿より)
神奈川県神社誌による中新田諏訪神社の由緒
現存する棟札によれば、当村守護所として阿波・諏訪大明神を、元和六年(一六二〇)に地頭・高木主水正次が造立奉るとある。なお、大縄崎村と記されている事から当時は、この地をこのような呼称していたものと思われる。
その後、明暦元年(一六五五)につづいて、貞享三年(一六八六)五月、享保十三年(一七二八)三月、慶応二年(一八六六)、明治十五年十一月などに、社殿の再建、又は修理が行われている。然し大正十二年九月一日の関東大震災では、社殿尽く鳥居に至るまで倒潰したので、直ちに復旧にかかり、翌十三年完工した。
明治四十三年九月二日、字伊勢宮下に鎮座の無格社・大神宮(延宝六年<一六七六>八月新造営、天明六年<一七八六>四月、及び明治十年九月修理の棟札が残る)を、同年十二月二十日、字山王原に鎮座の無格社・日枝神社(宝永六年<一七〇九>正月新造、正徳五年<一七一五>十月以降三回の修復が行われた棟札が残る)を合祀したが、終戦後の昭和二十五年に至り、関係氏子中の希望によって、元の鎮座地に還られた。また境内社として祀られてあった疱瘡神は、小学校仮校舎建設のため、南方約一〇〇米の稲荷社へ移転した。
元禄一五年(一七〇二)九月吉祥日、地頭・秋元小左衛門成朝が寄進した宮鐘は、太平洋戦争に際して失った。
明治六年十一月村社に列せられ、大正四年九月二十一日神饌幣帛料共進神社に指定された。(神奈川県神社誌より)
中新田諏訪神社の周辺図