福生山宝善院。平塚宿本陣の菩提所
宝善院の概要
東寺真言宗寺院の宝善院は、福生山能満寺と号します。宝善院は、鎌倉八幡宮寺へ下向した東寺の学問僧により、建久年間(1190-1199)に創建したといいます。江戸期には平塚宿本陣の菩提所となっていたそうです。
山号 | 福生山 |
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院号 | 宝善院 |
寺号 | 能満寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 平塚市平塚1-23-16 |
宗派 | 東寺真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝善院の縁起
宝善院は、鎌倉八幡宮寺へ下向した東寺の学問僧により、建久年間(1190-1199)に創建したといいます。江戸期には平塚宿本陣の菩提所となっていたそうです。
境内掲示による宝善院の縁起
福生山宝善院の歴史
約八百年前の建久年間、鎌倉八幡宮寺(現在の鎌倉八幡宮)に下向した京都・東寺の学問僧らにより開山された。
戦国時代は小田原北条氏の庇護を受け、今も寺紋は「北条のミツウロコ」である。最後の城主北条氏直は持仏の虚空蔵菩薩を落城の中、宝善院に運ばせたという伝説がある。
家康公江戸城入府され、平塚は幕府直轄地となる。家康公の命により譜代の家来、加藤・成瀬一族は平塚宿本陣を当院門前に定め、当院を本陣菩提所とした。これにより、江戸時代三百年、当院は大いに隆盛し今日に至る。(境内掲示より)
新編相模国風土記稿による宝善院の縁起
(平塚新宿)寶善院
福生山能満寺と號す(本寺前に同じ:足柄下郡国府津村寶金剛寺末)中興開山聖全(卒年詳ならず、貞享の頃の住持なりと云、)本尊不動、寺寶に玉一顆あり(明星玉と稱す、傳来詳ならず、)
天王社
稲荷社
天神社
虚空蔵堂(新編相模国風土記稿より)
宝善院の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿