大町八雲神社。新羅三郎義光公の園天王社、佐竹天王
大町八雲神社の概要
大町八雲神社は、鎌倉市大町にある八雲神社です。大町八雲神社は、新羅三郎義光公が後三年の役に赴く際、当地に悪疫が流行していたことから永保年中(1081-1084)に京の祇園社を勧請、祇園天王社と称していたといいます。応永年間(1394-1428)には佐竹屋敷にあった佐竹一族の霊祠(参照:大町大寶寺)を合祀、佐竹天王とも称されていました。当社の例祭は古くより盛んで、大町・乱橋・小町村・雪ノ下村大蔵町の四か所に四座の神輿が巡行、室町時代には関東公方足利成氏の屋敷へも神輿が渡御、また小田原北條氏直公は祭礼保護の禁制も出していました。明治維新後八雲神社と改称、明治6年村社に列格、明治40年には神饌幣帛料供進神社に指定されていました。
社号 | 八雲神社 |
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祭神 | 須佐之男命 |
相殿 | 稲田比賣命、八王子命、佐竹氏の靈 |
境内社 | 御嶽三峰神社、諏訪神社、稲荷神社、於岩稲荷社 |
祭日 | 例祭日7月7日 |
住所 | 鎌倉市大町1-11-22 |
備考 | - |
大町八雲神社の由緒
大町八雲神社は、新羅三郎義光公が後三年の役に赴く際、当地に悪疫が流行していたことから永保年中(1081-1084)に京の祇園社を勧請、祇園天王社と称していたといいます。応永年間(1394-1428)には佐竹屋敷にあった佐竹一族の霊祠(参照:大町大寶寺)を合祀、佐竹天王とも称されていました。当社の例祭は古くより盛んで、大町・乱橋・小町村・雪ノ下村大蔵町の四か所に四座の神輿が巡行、室町時代には関東公方足利成氏の屋敷へも神輿が渡御、また小田原北條氏直公は祭礼保護の禁制も出していました。明治維新後八雲神社と改称、明治6年村社に列格、明治40年には神饌幣帛料供進神社に指定されていました。
境内掲示による大町八雲神社の由緒
永保年中新羅三郎義光公の勧請と伝う。室町時代関東管領足利成氏公は公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。
戦国時代小田原城主北條氏直公は祭礼保護の「虎印禁制状」を下賜し、慶長九年徳川家康公は永楽五貫文の朱印地を下賜された。
古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称された。(境内掲示より)
神奈川県神社誌による大町八雲神社の由緒
社伝によれば永保年中(一〇八一~一〇八四)新羅三郎義光公の勧請という。後三年の役に奥州鎮護の任に当った兄八幡太郎義家公を援護のため、義光公奥州に下向の途次、足柄山を越えて相模鎌倉の地に入った時、たまたま此の地に悪疫が流行し、里民の苦難を訴えているさまを憂慮され、厄除の霊験あらたかな京の祇園社を勧請、産土神として尊崇せしめたところ、悪疫たちまち退散し、里民愁眉を開き安堵したという。これが当社の起源である。
又、応永年間(一三九四~一四二八)には佐竹屋敷にあった佐竹一族の霊祠を当社の相殿に合祀し、これを佐竹天王と称し、神輿四座のうち一つを佐竹天王と伝えるという。室町時代関東公方・足利成氏公は毎年大祭に神輿を公方屋敷に渡し、奉幣拝礼された旨が『鎌倉年中行事』に見えている。戦国時代小田原北条氏五代・氏直公は、天正十四年(一五八六)六月大道寺駿河守をして、当社の祭礼に当り狼藉を禁じた虎朱印禁制状を下賜された。慶長九年(一六〇四)三月、徳川家康公が当社に永楽五貫文の朱印地を下賜された。
当社の社号は『相模風土記』に「祇園天王社」とあり、また里民は祇園様とも佐竹天王様とも称したが、明治の神仏分離にさいし八雲神社と改称した。明治六年十二月村社に列格され、明治四十年四月神饌幣帛料供進神社に指定された。社殿は大正十二年九月の関東大震災に倒潰し、昭和五年新築復興した。大町地区の氏神社である。(神奈川県神社誌より)
新編相模国風土記稿による大町八雲神社の由緒
(大町村)祇園天王社
松殿町にあり、永保年中新羅三郎義光の勸請にて神體は秘像と云傳ふ、氏成管領の頃は毎年六月七日公方屋鋪に神輿を渡して神楽を奏し奉幣の式あり、又十四日の祇園會も是と同じ、地記事の上桟敷を構へ舞練物等見物あり(注釈)
又應永中佐竹四郎義秀の靈を祀し社其屋鋪蹟にありしが、後年大破に及しより茲に合祀すと云ふ(其年代詳ならず、)故に土俗佐竹天王と稱す、按ずるに、義秀は賴朝に屬せし人にて時代違へり、應永の末に其末葉佐竹上総介義顯入道管領持氏の不審を蒙り討手を引請、終に比企谷の法華堂(今の妙本寺也)にて自害す、其靈崇ありとて一社に祀りし事あり、是今相殿の舊社にて義秀と云ふは義顯の誤なるべし(注釈)
例祭舊に因て六月七日より十四日迄行はる、本日當村亂橋村の二所に假屋を設、前の二村小町村雪ノ下村の内大蔵町の四所に四座の神輿巡行あるを例とす、天正十四年六月小田原北條氏より祭禮の時の制札を出せり(注釈)
慶長九年三月車両五貫文及山林竹木、守護不入の御朱印を賜ふ、
【社寶】△古鏡一面(注釈) △假面一面(猿田彦の面にて、栗毛塗裏布張なり、六代踏吉定漆部常卿守常等の數字を記せり)△古文書二通△神主小坂播磨 吉田家の門人、(新編相模国風土記稿より)
大町八雲神社の周辺図