行時山光則寺。日朗上人らが入牢していた土の牢屋
光則寺の概要
日蓮宗寺院の光則寺は、行時山と号します。光則寺は、「立正安国論」などにより日蓮上人が瀧の口で処刑されようとした時、弟子日朗・日眞二人檀那四條金吾父子四人も捕らえられ、北條時頼の家臣宿屋光則の屋敷内にあった土の牢へ入れられていたといいます。その後奇瑞により日蓮聖人は処刑を免れ佐渡へ流されることになったものの、宿屋光則は次第に日蓮聖人に帰依、日蓮承認赦免後の文永11年(1274)頃には邸宅を一寺とし、日朗上人を開山として創建したといいます。山号は、宿屋光則の父行時から、寺号は本人の名から付けられました。境内には日朗上人らが入牢していたといわれる土の牢が残されています。
山号 | 行時山 |
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院号 | - |
寺号 | 光則寺 |
本尊 | 木像阿弥陀三尊立像 |
住所 | 鎌倉市長谷3-9-7 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 日朗上人の土の牢 |
光則寺の縁起
光則寺は、「立正安国論」などにより日蓮上人が瀧の口で処刑されようとした時、弟子日朗・日眞二人檀那四條金吾父子四人も捕らえられ、北條時頼の家臣宿屋光則の屋敷内にあった土の牢へ入れられていたといいます。その後奇瑞により日蓮聖人は処刑を免れ佐渡へ流されることになったものの、宿屋光則は次第に日蓮聖人に帰依、日蓮承認赦免後の文永11年(1274)頃には邸宅を一寺とし、日朗上人を開山として創建したといいます。山号は、宿屋光則の父行時から、寺号は本人の名から付けられました。境内には日朗上人らが入牢していたといわれる土の牢が残されています。
鎌倉市掲示による光則寺の縁起
「立正安国論」などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕えられました。やがて光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。
境内の裏山には日朗上人が捕えられていたと伝わる土牢が残っています。
境内には法華経の信者だった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、樹齢二百年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。(鎌倉市掲示より)
新編相模国風土記稿による光則寺の縁起
(長谷村)光則寺
行時山と號す法華宗(大町村妙本寺末)、寺域はもと北条時賴が臣宿屋左衛門光則入道最信が宅地なり、故に今も域内ばかりを宿屋と號す、昔日蓮龍の口にて刑に臨し時弟子日朗・日眞二人檀那四條金吾父子四人を光則に預られ、土の牢に入らる然るに日蓮不思議の奇瑞有て害を免れしかば是より光則深く渇仰し、宅地に一宇を營み、光則が父の名を行時と云ひしが故其名を山號とし、我名を寺號とし、日朗(元應二年正月廿一日寂す)を開山始祖とすと云へり、其後古田兵部少輔重恒が室(法名大梅院常學日通、寛文九年七月十二日死す、境内に其墓あり)堂宇を再興せり、故に或は大梅院とも唱ふ、本尊三寶を安ず、日蓮(坐像長一尺日法作)の像あり、
【什寶】
△宗祖眞骨一箇
△十界勧請曼荼羅二幅(一は日蓮、一は日朗筆、)
△消息一通(十月三日と記し日蓮の華押あり、末に本門寺、日顯の奥書あり、曰、此州依智より鎌倉宿屋土牢中、五人口被下御正筆、毛頭無疑念、故慥に奉加證判、元文四年七月良辰、本門寺日顯と記せり、原も慈讀がたし、【注畫賛】にも、同時の書翰を載す、是と異なり、今土牢の條に引用す、)
△稲荷社。境内の鎮守なり、愛敬稲荷と云ふ、縁起に據るに往昔鍛冶宗近一條帝の勅により一振の劔を鍛し時、藤森の稲荷に祈誓しけるに、神其懇誠を感じ、合槌を助け給ひしとぞ、かくて其劔を捧げしに叡感ありて宗近を賞し給ふ、かかりしかば宗近崇敬の餘り神躰を彫刻し、宅地に安じて合槌稲荷と號しけり、其後建長四年宿屋光則、北條時賴の旨を受け京に到て宗尊親王を迎まいらせし時我君守護の爲宗近の劔を求けるに或夜此神靈童子に現じて一振の劔を授くと夢みしに覺て後枕上に小祠あり、開き見れば木像の神躰なり、光則奇異の思をなし鎌倉に歸り當社を造立せしと云ふ、
〇開山堂
日朗・日眞、及四條金吾賴基(事實下居蹟部に出す、)同左衛門。南條平七郎・中務三郎左衛門等の木像を置く、
〇三日月井
開山堂の傍にあり、
〇土牢
寺後の山上にあり文永八年九月日蓮囚はれし時日朗・日眞及び四條金吾賴基等四人を宿屋光則に預られ、此に繋累せらる(【注畫賛】:省略)
かくて日蓮不思議の奇瑞ありて戮を宥められ、愛甲郡依智郷本間六郎左衛門重連が許にあり、十月三日依智より日朗等に書状を贈る(注釈を読む)
同九年再窟中に辭別の書翰を投ず(注釈を読む)
日朗窟中に在て吾師患難の惨に堪ず獄吏に對ひ一度師の謫居を訪ひ再獄所に歸らん事を請けるに獄吏も其心の切なるに感じて是を許す、日朗殊に喜び潜に遁れ出て佐州の配所に至事數度に及ぶ(説明文省略)
同十年閏五月赦免あり(注釈を読む)
今窟内に日朗の像及び五輪塔あり。(新編相模国風土記稿より)
光則寺所蔵の文化財
- 日朗上人の土の牢
日朗上人の土の牢
文永十一年(1274年)頃に建立された光則寺は、もともとは北條時頼の側近・宿屋光則(やどやみつのり)の屋敷であったが、日蓮聖人が佐渡へ流された時、高弟・日朗(にちろう)上人も捕らえられ、この邸内の土の牢に監禁されたといわれています。
その後、光則は次第に日蓮聖人に帰依し、日蓮赦免後は日朗上人を開山に光則寺を創建した。
この土の牢は700年以上の歴史を刻んでいると推定されています。(境内掲示より)
光則寺の周辺図