高徳院。鎌倉市長谷にある浄土宗寺院

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獅子吼山高徳院。鎌倉大仏

高徳院の概要

浄土宗寺院の高徳院は、獅子吼山清浄泉寺と号し、鎌倉大仏として著名です。高徳院は、頼朝の侍女だった稲多野局が発起し、沙門浄光が勧進して鎌倉大仏を寛元元年(1243)に造立、建武元年(1334)・應安2年(1369)に大風に倒れ、その都度復興したものの、明應7年(1498)の海潮(津波か)で大仏殿が大破し野ざらしとなり、その後廃寺同様となっていたものを嘆いた増上寺36世祐天上人が再興を計画、江戸神田の商人野島新左衛門が開基となり、浄土宗寺院として中興開山したといいます。鎌倉三十三観音霊場23番です。

高徳院
高徳院の概要
山号 獅子吼山
院号 高徳院
寺号 清浄泉寺
本尊 阿弥陀如来坐像
住所 鎌倉市長谷4-2-28
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 鎌倉大仏



高徳院の縁起

高徳院は、頼朝の侍女だった稲多野局が発起し、沙門浄光が勧進して鎌倉大仏を寛元元年(1243)に造立、建武元年(1334)・應安2年(1369)に大風に倒れ、その都度復興したものの、明應7年(1498)の海潮(津波か)で大仏殿が大破し野ざらしとなり、その後廃寺同様となっていたものを嘆いた増上寺36世祐天上人が再興を計画、江戸神田の商人野島新左衛門が開基となり、浄土宗寺院として中興開山したといいます。

新編相模国風土記稿による高徳院の縁起

(長谷村)長谷村)大佛・獅子吼山(寺は大巽山と號す)
清浄泉寺と號す、金堂の廬舎那仏なり(注釈を読む)
彌陀(木像長一尺二寸、天竺傳来と云ふ)を腹籠とす、抑當佛殿は沙門浄光普く募縁して營作を企て、暦仁元年三月遂に此地に新造の事始あり (【東鏡】曰、暦仁元年三月廿二日、相模國深澤里、大佛堂事始也、僧浄光令勧進、尊卑緇素、企此營作云々)
五月大佛の妙好相始て成る(五月十八日、相模國深澤里大佛御頭奉擧之、周八丈也)仁治二年三月上棟の儀あり(仁治二年三月廿七日、深澤大佛殿、有上棟之儀、)四月囚人逐電の事により預人等が過怠の料を修造の費に充らる(注釈を読む)
寛元元年六月落成して供養あり(注釈を読む)
此時造立の佛像は木像なり(注釈省略)
建長四年八月改て金銅の佛像を鑄る(注釈を読む)
建武二年八月鎌倉の軍兵堂内に遁入て大風を避けるに棟梁折て是が爲に壓せられて死する者五百餘人とぞ(注釈を読む)
應安二年九月大風の爲に堂宇顛倒す(【鎌倉九代後記】曰、應安二年九月三日大風鎌倉大佛殿轉倒)
明應四年八月由井濱の海水激奔して又佛殿破壊に及べり(【鎌倉大日記】曰、明應四年八月十五日洪水由此濱海水激揚して、大佛の堂を破る、)
其後はただ礎石のみを存して佛像は露座せり、【梅花無盡蔵】にも露座のさまを詠ぜし詩あり(注釈を読む)
今に至て猶堂再建に及ばず、石座お前に銅燈檠二基あり(野島氏の寄附)又寺域の後山を後光山と呼ぶ、佛像造立の時後光の現ぜし故此名ありと云へり、古は建長寺の持なりしが今は別當を置て高徳院と云ふ、
△鎮守社。八幡・春日・雨寶童子三神を合祀す、
△秋葉社
△天神社
△辨天社
△疱瘡神社
△仁王門。獅子吼山の額を掲ぐ、
△國分寺碑。聖武帝艸創東三十三箇國總國分寺と彫す、往古の國分寺跡とするは非なり、事は高徳院の條に辨ず、
△別當高徳院
浄土宗(材木座村光明寺末)此地もと眞言宗、浄泉寺の舊趾にて其先天平年中行基浄泉寺を開基しけるに其後星霜を經て明應年中廢寺となり(注釈を読む)
大佛のみ有しを近世正徳年間増上寺主顯譽祐天再興の志を發せしに江戸神田に在る商買、野島新左衛門祐天に歸依し、資財を捨て共に當寺を興立し、山號を獅子吼と改め寺號は清浄泉寺の舊に從ひ、宗旨を改て光明寺の末に屬す、故に祐天を中興の開祖とし、松参詮察を第二世とし新左衛門を中興の開基とす、本尊彌陀(木像長一尺五寸、惠心作、)を安ず、又同像(是も惠心作、座像五十五分、)及び愛染(行基の作なり、宗尊親王、大佛傳前に一宇を建て、安ぜし像なりと云ふ)の像を置く、
【寺寶】
△三社之畫像三幅(有徳院殿の御筆と云ふ)
△錦曼荼羅名號一幅(尾州鶴姫君、十七歳の時の御筆なりと云ふ、此二品は當寺の住職然的の時、尾張家に内縁あり、故に當寺に傳はると云へり、)(新編相模国風土記稿より)


高徳院所蔵の文化財

  • 国宝鎌倉大佛因由

国宝鎌倉大佛因由

この大佛像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で歴仁元年(一二三八)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(一二四七)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(一二五二)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右エ門や丹治久友の名が伝へられる。大仏殿は建武元年(一三三四)と應安二年(一三六九)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明應七年(一四九八)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正十二年(一九二三)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正十四年(一九二五)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和三十五、三十六年(一九六〇-六一)の修理では、前傾してる頭部を支える頸部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。(境内掲示より)

高徳院の周辺図