天源院。建長寺の塔頭寺院
天源院の概要
臨済宗建長寺派寺院の天源院は、雲閑山と号し、建長寺境内にある建長寺の塔頭寺院です。建長寺三十一世象外禅鑑(妙覚禅師)が円覚寺内に創建、後火災により建長寺内に再建したといいます。
山号 | 雲閑山 |
---|---|
院号 | 天源院 |
寺号 | - |
本尊 | 十一面観音菩薩 |
住所 | 鎌倉市山ノ内85 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天源院の縁起
天源院は、建長寺十三世南浦紹明(大応国師)の塔所として、柏庵宗意が建長寺内に創建、後に龍源庵と合寺したといいます。南浦紹明(大応国師)は宋で修行の後、博多崇福寺で住持を務めていましたが、徳治2年(1307)北条貞時に招聘され建長寺に移ったといいます。
新編相模国風土記稿による天源院の縁起
天源庵
十三世紹明の塔所なり。高僧傳曰、釋紹明号南浦、藤姓駿州阿部縣人、幼事本州建穂寺、浄弁法師、学教十五芟染、受戒盤桓数載、棄去参建長蘭渓禅師、正元間入中華、徧間諸刹、時虚堂愚和尚、主浄慈、門庭、高唆非宿学、莫敢闖其穡、明往拝謁、咸淳三年秋、辭堂東帰、当本朝文永4年也。謁蘭渓禅師、知蔵論於建長、七年庚午冬、出世筑州興徳、九年壬申、迂大宰府之崇福寺、住職三十余年、関西饗風門庭日盛、嘉元三年秋、奉詔入京師、伏見太上皇、召対宮掖、問答称旨、敕主萬寿寺、帝又以東山故跡、興造嘉元禅刹、延明為第一組、徳治2年、副元帥平貞時、聘赴相州、留正観寺、請就署所演法復敷奏、薫建長興国禅寺、翌歳太上皇降于詔存問、思禮優至、明建長入寺之夕、小参有日、今年臘月29日、来無所来、明年臘月29日、去無所去、大衆驚訝莫諭其意、明年延慶戌申臘月29日、忽示微疾至二更書偈逝閲世七十有四獲舎利無算、事聞上皇哀臨不憫。勅謚円通大應国師、重勅建寺西京、額曰龍翔、樹塔於寺之後崦、掏曰普光、庵曰祥雲、弟子在建長、崇福者、各奉舎利、建塔建長之塔、日瑞雲々々。
普光の額。後宇多帝宸筆と云を扁す。明の像を置く庵中経蔵あり。一切経を収む。門に雲関の額を掲ぐ。僧大燈が投機の旧跡にて透過雲関無古路と頌せしは此所なりと云ふ。(新編相模国風土記稿建長寺項より)
新編相模国風土記稿による天源院の縁起
龍源庵
古は傳燈庵と云へり。廃絶の後正統庵中の龍源軒を移して改建せしと云。傳燈庵は当山世代中子曇が塔所なりといへり。(新編相模国風土記稿建長寺項より)
天源院所蔵の文化財
- 木造南浦紹明坐像
- 木造毘沙門天立像
天源院の周辺図