三社宮。浅間・赤城・稲荷合祀の宮
三社宮の概要
三社宮は、川崎市中原区下沼部にある神社です。三社宮の鎮座する当地は江戸時代には下沼部村小名向川原と呼ばれ、多摩川向岸の下沼部と一村を構成していましたが、明治45年に東京都と神奈川県とに分かれたため、当地向川原に神社を設立ことになったといいます。祭神には、旧来よりの下沼部村鎮守であった田園調布浅間神社から木花咲耶姫命を勧請、社殿には、下沼部で田園調布浅間神社に合祀されることになった赤城神社の空社殿を利用、そして当地に古くから鎮座していた稲荷堂を合祀したといい、赤城神社の磐筒男命、稲荷堂の宇加之霊を併せて三社宮と号したといいます。
社号 | 三社宮 |
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祭神 | 木花咲耶姫命、宇加之霊、磐筒男命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社 |
祭日 | 例祭日10月第1日曜日 |
住所 | 川崎市中原区下沼部1747 |
備考 | - |
三社宮の由緒
三社宮の鎮座する当地は江戸時代には下沼部村小名向川原と呼ばれ、多摩川向岸の下沼部と一村を構成していましたが、明治45年に東京都と神奈川県とに分かれたため、当地向川原に神社を設立ことになったといいます。祭神には、旧来よりの下沼部村鎮守であった田園調布浅間神社から木花咲耶姫命を勧請、社殿には、下沼部で田園調布浅間神社に合祀されることになった赤城神社の空社殿を利用、そして当地に古くから鎮座していた稲荷堂を合祀したといい、赤城神社の磐筒男命、稲荷堂の宇加之霊を併せて三社宮と号したといいます。昭和13年、向河原駅前通りの拡張に伴い、現在地に遷座しています。
神奈川県神社誌による三社宮の由緒
創建の由来を明らかにしないが、古来下沼部村の鎮守として村民の信仰を集めて来た。(神奈川県神社誌より)
三社宮氏子中による境内掲示による三社宮の由緒
三社宮の誕生
明治45年4月1日(1912)付けで東京府(都)と神奈川県の境が多摩川によって区切られたため、多摩川のこちら側にあった下沼部は、荏原郡下沼部より分村することになりました。
当時の氏神様は、浅間神社(今の大田区亀甲山々上田園調布浅間神社)でしたが、分村することになったため氏神様も分社する事になりました。
これより先、東京川下沼部に鎮座する赤城神社が明治42年7月1日に浅間神社に合祀されたため空社殿を譲り受けることになりました。
社殿の引き渡しは、明治45年7月中旬に行われたそうです。渡し舟二隻を清めて、川を下り接岸、向河原十五軒の氏子に引渡したとのことです。
社殿に向って右側に赤城神社の社殿であるため「磐筒男命」中央には昔から村に氏神様である浅間神社の「木花咲耶姫命」左側には昔から村にあった稲荷堂の「宇加之霊」を合祀して「三社宮」と命名しました。
昭和11年7月7月、日本電気株式会社が下沼部地区の現在地に玉川工場を設立し、村は急速に発展してきました。それに伴って、道路を拡張(現在の駅前通り)することになり、それまでの下沼部1915番地から、現在の社殿は昭和13年5月に移築しました。
以上が三社宮の歴史です。(三社宮氏子中による境内掲示より)
合祀している赤城神社の由緒について
(下沼部村)赤城社
字長久保の下通りにあり。上屋2間四方、中に9尺に4尺の祠あり。南向なり。本地と云ものは地蔵の木像にて長8寸ばかりあり、其内に安ず。華表南向、両柱の間7尺。当村東光院の持。
末社稲荷社。本社の傍にあり、尤小祠なり。(新編武蔵風土記稿より)
三社宮の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 神奈川県神社誌