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田園調布浅間神社|大田区田園調布の神社

田園調布浅間神社の概要

田園調布浅間神社は、大田区田園調布にある浅間神社です。田園調布浅間神社は、文治年間(1185-90)北条政子が源頼朝出陣に際して多摩川の畔まで来た際、当地に身につけていたた正観音像をこの丘に建てて創建したといいます。江戸時代には下沼部村の鎮守となっており、太平洋戦争終戦まで村社に列格、明治42年に近隣にあった赤城神社を合祀しています。

田園調布浅間神社
田園調布浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花咲耶姫命
相殿 -
境内社 小御岳神社、稲荷神社、三峯神社、阿夫利神社
祭日 例祭日6月第1土日曜日
住所 大田区田園調布1-55-12
備考 旧下沼部村鎮守、旧村社



田園調布浅間神社の由緒

田園調布浅間神社は、文治年間(1185-90)北条政子が源頼朝出陣に際して多摩川の畔まで来た際、当地に身につけていたた正観音像をこの丘に建てて創建したといいます。江戸時代には下沼部村の鎮守となっており、太平洋戦争終戦まで村社に列格、明治42年に近隣にあった赤城神社を合祀しています。

「大田区の神社」による田園調布浅間神社の由緒

文治年間(1185-9)源頼朝は豊島郡滝野川松崎に出陣した。頼朝の妻政子は夫の身を案じ、多摩川の畔まできた。わらじの傷を治し、傷の治るまで附近を散歩するうちに亀甲山に登ると富士山が見える。富士吉田には自護本尊の浅間神社がある。政子は彼方の浅間神社に頼朝の武運長久を祈り、身につけた正観音像をこの丘に建てた。村人は像を富士浅間大菩薩と呼ぶようになったよいう。(「大田区の神社」より)

新編武蔵風土記稿による田園調布浅間神社の由緒

(下沼部村)浅間社
除地、小名堀廻しの西の方二十四五歩ばかりの山上にあり。勧請の年暦等も詳ならず。祭礼は六月朔日なり。東光院のもちなりと云。
石龕。山の上中央の所にあり。1尺5寸四方、高さ3尺東向なり。本尊正観音は銅佛立像にて長8寸許、相傳此像は古佛にして此所へ垂跡ありし年代も詳ならず。一年洪水ありし時風雨ことに烈しくして社内も破壊せしかば、尊像の所在を失ふ。これに因て土人新に前立の木像を作りて安置せり。長8寸許、其後「今より72年前を云」此所の大木の松樹かれしかば、別当より百姓等に課せて其根をほらしむるに、その邊より一体の尊像をほり出す。此時鍬にてかきしとて右のかひなを失ふ。されどそのままにありしかば、文化6年土人相はかりて冶工に命じて右の手を修理して是を安置す。その尊像及び前立の木佛共に今は別当寺におさめり。
華表。山の中腹にあり。幅7尺巽の方に向ふ。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による田園調布浅間神社の由緒

当浅間神社は、今から約八百年前、鎌倉時代の文治年間(1185-90)の創建と伝えられます。右大将源頼朝が豊島郡滝野川に出陣したおり、夫の身を案じ、後を追って来た妻政子は、わらじの傷が痛み出し、やむなくここで傷の治療をすることになりました。
逗留につれづれに亀甲山へ登ってみると、富士山が鮮やかに見えました。富士吉田には、守り本尊の「浅間神社」があります。政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建てました。村人達はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く尊崇しました。これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
承応元年(1652)浅間神社表坂の土どめ工事をしていたとき、九合目辺りから唐銅製の正観世音の立像が発掘されました。多摩川で泥を洗い落としてみると片足がありません。そこで足を鋳造してお祀りし、6月1日に神事を行いました。以来、神社のご祭礼は6月に行われております。(境内掲示より)


田園調布浅間神社の周辺図


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本日休館