枡形天神社。川崎市多摩区枡形の神社

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枡形天神社。式内社男衾郡稲乃賣神社を勧請して室町時代に創建

枡形天神社の概要

枡形天神社は、川崎市多摩区枡形にある神社です。枡形天神社は、室町時代に稲目某が当地に定住、稲田姫を祭神とする式内社の男衾郡稲乃賣神社(寄居町)を勧請して創建したと伝えられるといいます。稲田姫を韋駄天と誤って韋駄天社と号していたといい、江戸期には韋駄天社と称していましたが、神仏分離令により天神社と改称したといいます。

枡形天神社
枡形天神社の概要
社号 天神社
祭神 建速須佐之男神、菅原道真
相殿 -
境内社 -
祭日 9月15日
住所 川崎市多摩区枡形6-16-7
備考 -



枡形天神社の由緒

枡形天神社は、室町時代に稲目某が当地に定住、稲田姫を祭神とする式内社の男衾郡稲乃賣神社(寄居町)を勧請して創建したと伝えられるといいます。稲田姫を韋駄天と誤って韋駄天社と号していたといい、江戸期には韋駄天社と称していましたが、神仏分離令により天神社と改称したといいます。なお、当地の小名を稲目と称していたといいます。

稲目について、新編武蔵風土記稿には「村の東にあり、土人の傳へ村内に稲目圖書と云人ありしゆへにこの地名おこれりと云、今その子孫なければくはしきことをしらず、隣郡多磨の内坂濱村高勝寺に稲目尾張守と云人の位牌ありと云、これも圖書が一族なるにや、按にこの稲目と云地名の起りしは古きことなるべし、鎌倉八幡宮の文書の内、文永三年三月三日武蔵目代と宛所あり状に云、鶴岡八幡宮領武蔵國稲目神奈川兩郷とあり、この頃は神奈川に對してかく云しをみれは、いと廣き地名なることしるべし、此邊すべて稲目と云しならん、今はわづかの所をいへり。」とあります。

新編武蔵風土記稿による枡形天神社の由緒

(上菅生村)韋駄天社
廣福寺の前高き丘の上にあり、村内の鎮守なり、勧請の年代を傳へず本社は宮作りにて丘上の平地にあり、上屋二間に三間東向なり、神體は二軀あり、一は社中にあり、長八寸ばかり、一は神輿におさめて廣福寺の観音堂にあり、この像は長一尺二寸ばかり共に立像なり、祭禮は年々九月十五日、廣福寺持なり、加々美遠清が考に、式内男衾郡稲乃賣神社は祭神稲田姫なり、當社も同社にて稲田姫を韋駄天とあやまれるなるべしと、此説は當所の小名に残りて稲の目と云所あるゆへに、この考あるなるべけれども、させる證跡あるにあらず。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による枡形天神社の由緒

此地を稲ノ目と称す。室町時代に稲目某がこの地に住し、天神を祭ったのが始まりと伝える。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による枡形天神社の由緒

天神社はこの辺り一円の氏神様です。
神奈川県神社誌によると室町時代に稲の目某と云う人が土着して天神様を祀ったのが始まりと云われております。埼玉県に稲田姫をご祭神とする稲目神社があり、この神社から御分霊を受けたものと推察されております。
また「江戸名所図絵」には足の速い神として知られる韋駄天様を祀る韋駄天社とも記されております。
明治初期の神仏分離令により天神様と知られる菅原道真公が祭神となり北野天満宮に変わり、北野天神社とも呼ばれておりました。その後、建速須佐之男神を祭神として現在の天神社となりました、由緒ある神社でございます。(境内掲示より)


枡形天神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 神奈川県神社誌